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成年後見契約

保佐、補助の代理権

保佐人に代理権を与える審判は申立てにより、本人以外の申立ての場合は、審判につき本人の同意が必要である(876条の4)。補助についても準用される(876条の9)

市長の申立て

民法に制限能力者に関する申立ての権限者が規定される。しかし、他に高齢者虐待防止法、老人福祉法、知的障害法、精神福祉法などにより、やむを得ず福祉を図る必要があれば、市長が申立てすることができる。
平成27年では、16.4%が市町村長の申立てである。

裁判所が後見人を選任する制度を法定後見ともいう。

任意後見契約

任意後見契約に関する法律による。
本人が判断能力が正常であるうちに、将来、自分の判断能力が不十分になった場合に備えて、予め特定人に生活や看護、財産管理の代理権を与える契約を締結することが可能になった。公証人による公正証書が求められる。

後見人は、この契約だけでは代理行為はできない。本人の判断能力が不十分になり、本人や後見人の申立てにより、家裁が任意後見人監督人を選任し、そのときはじめて、任意後見人として事務を行うことができるようになるのである。

代理権の範囲は無制限ではなく、任意後見契約の締結時に「代理権目録」を作成し、その範囲内に限られるという制度設計になっている。

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日本の精神科医療の歴史的展開

問題の所在

日本の精神科医療が欧米諸国と大きく異なっていた歴史的経過について考える。

我が国の精神科医療は、障害者の治療を重視していた欧米諸国のそれと大きく異なり、隔離的な入院措置が重視されていた。この背景は何か。

ライシャワー事件以前

18世紀までは日本と欧米を問わず、精神障害に対する理解と研究が進まない状況にあった。

しかし、フランス革命期にPh.ピネルが心理的療法を提唱し、精神障害の治療という概念が登場した。これを「鉄鎖からの解放」という標語で表すこともある。ピネル以降、J.E.D.エスキロール、W.チュークらを経て、S.フロイト、E.クレペリン,E.ブロイラーの登場により、現代精神医学が基礎付けられた。

これに対し我が国においては、精神障害者を「狐憑き」等と呼び、家庭内の座敷牢へ隔離することが主たる対応であった。精神病を患う旧中村藩藩主相馬誠胤の監禁をめぐる相馬事件を契機に精神病者監護法が制定されたものの(1900年)、同法は私宅監置を合法化するにとどまり、精神障害者の処遇や治療への配慮を欠いた内容であった。これについては呉秀三らの「精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的観察」により、時代錯誤的欠陥を批判された。

その後、道府県による精神科病院の設置を促進する精神科病院法が制定されるものの(1919年)、私宅監置は後を絶たず、1935年には入院患者2,000人に対し私宅監置は7,000人に上る状況にあった。

戦後、基本的人権の尊重や社会権といった理念をふまえ、精神衛生法(1950年)において私宅監置が禁じられるが、他方で強制入院制度について禁じられることなく、同意入院と措置入院に整理されるに留まった。同法については、厚生省による衛発729号(1961.9.16)により、拡大解釈が行われるとともに貧困救済の側面を含む運用がなされ、更に衛発311号(1961.9.11)による、措置入院に対する国庫負担率の引き上げによる措置入院の拡大は、私立病院を指定病院として代替することが認められていたこととあいまって、私立精神病院の建設ラッシュを招くことになった。これは、公立病院が主である欧米とは異なる日本の特色であると言える。そして、1965年には、病院数は1,200を、病床数は20万を越えた

ライシャワー事件~宇都宮病院事件

西洋に目を転じれば、1952年にJ.ドレイによりクロルプロマジンの抗精神病作用が発見されたことによる向精神薬の開発と導入により、1960年代以降の精神医学は一変した。閉鎖病棟から開放病棟や通院治療へと治療の現場が移行し(脱施設化)、患者の社会復帰を目指すリバビリテーション(社会療法)及び地域精神医学という潮流が生まれた。

この時期、これらの情報や技術の流入により、我が国においても、従前の隔離的な政策や入院治療から、開放化と短期入院の方向で精神衛生法の改正が検討される時期にあった。

しかし、その矢先である1964年にライシャワー駐日アメリカ大使が精神障害者に襲われるという事件が発生した。これは精神科医療の歴史に暗い陰を落とすことになる。池田隼人総理は「こういう患者を急いで取り締まれるように対処せよ」という趣旨の指示を行い、精神衛生法は、緊急措置入院制度が強化される方向へ改正された(1965年)。この対応は、精神障害者の人権という方向へ傾きかけていた医学的あるいは政治的状況を、再び社会防衛思想の方向へ揺り戻すターニングポイントとなった。

1970年代以降も、我が国では精神障害者の社会復帰促進が実現されない状況が続くこととなった。この背景には、精神衛生法による入院制度のほとんどが営利を目的とする民間病院への入院であり、受け手側においては、満床を維持するために入院の必要のない者を長期入院させるという構造上の問題により、精神科病院の数と患者数は拡大し続けることになった。同時に、必要とされる精神医療従事者を確保することが困難となり、やがて1984年の宇都宮病院事件発覚に至る。

宇都宮病院事件により明らかになったのは、同病院における超過入院、極端な医師や看護婦不足、でたらめな診療等の違反行為であった。この事件を受けて厚生省は「極めて特殊なケース」であるとしていたが、NGO国際人権連盟は1984.9月発出の文書において17の病院を挙げ、宇都宮病院は「氷山の一角」であるとしている(1984.9.17朝日新聞夕刊)。

この事件の経緯の検証の結果、行政機関は民間病院の問題を黙認したうえで精神障害者を精神病院に送り、いわば弱みを知る立場にあった宇都宮病院院長の態度は、今日の精神科医療に携わる者から見れば信じられないような点が見受けられた。この事件発覚後に、群馬県のT病院や栃木県のS病院などでも暴行があった旨の告発があり、根の深さが浮き彫りにされた(1984.912朝日新聞朝刊)。宇都宮病院事件は、最も悪い意味で、我が国の精神障害者の隔離の歴史を象徴するものであったと位置付けることができるだろう。

この事件が、国内にとどまらず諸外国の批判にさらされたことは論を待たないが、特筆すべき点として1984年の国連人権小委員会での指摘がある。これを受けるかたちで、精神衛生法は精神保健法に抜本改正されることになった。精神保健法の主眼は、①精神障害者の人権尊重、②社会復帰のための施設の具体化、③入院制度の改革と再編である。ここにいたって、ようやく我が国でも、欧米の精神科医療と同じ方向へ進むための最低限の法制度の整備が行われたと評価できる。

まとめ

以上検討したとおり、欧米の精神科医療が、比較的早い段階から精神障害者の治療と社会復帰という方向性を有していたのに対し、我が国の精神科医療は、一定の政治的環境により、欧米とは異なる制約があった。すなわち、日本が近代国家として成立した明治以来、国家が発展するためには、精神障害者は「反秩序者」として、秩序維持のために隔離されるべきであるという社会防衛論的背景がそれである。この点、精神保健法以降は、法制度等の政治的環境の点では問題は一定程度是正され、結果として精神科医療は治療と社会復帰を目的とするものへ発展している。

しかし、今日においてもマスコミが、報道において精神科病院への通院歴を報道している例に見られるように、国民の精神障害者に対する前時代的な偏見は、完全に払拭されているとは言い難い点があり、国民一人一人の意識改革が、残された課題であるといえる。

 (以 上)

参考文献

リンクを貼らせていただいたサイトのほか

  • 藤野ヤヨイ「我が国における精神障害者処遇の歴史的変遷-法制度を中心に-」(新潟青陵大学紀要第5号2005)
  • 山下剛利「精神衛生法一部改正」精神医療,1981
  • 岡田靖雄「ライシャワー事件をめぐって-精神衛生法をめぐる諸問題」東京,松沢病院医局病院問題研究会,1964
  • 山下剛利「精神衛生法批判」東京,日本評論社,1985
  • 浅井邦彦「スティグマと差別を超えて」東京哲学書房,2004
  • 小谷野博 (著), 富田三樹生 (監修) 『図解雑学 精神分析 (図解雑学シリーズ) 』ナツメ社,2001
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戦争の違法化と正戦論

国際法における戦争の違法化と、政治学における正戦論に関する研究ノート

■「正戦」とは~戦争の違法化まで

中世~近代、キリスト教との関係で「正戦」が議論になった。「すべて隣人を愛せ」とする教義と戦争は両立するのかという議論である。では、神の前でも罪にならない戦争、つまり「正戦」というものはあるのだろうか。歴史上、正戦因は多様であった。18世紀、戦争は、確かに目の前に在る現実であった。しかし19世紀に入ると、従来の正戦論は維持できなくなる。何故なら「主権国家」という思想が確立し、各国家の上位に位置する権力を観念できないことが明らかになったからである。この中にあっても論者によっては、「正戦」はあるとする考え方を維持する者、自由な交戦権を認める者などがおり、議論が重ねられた。しかし「一旦始まった戦争には、守るべきルールがあるだろう」という点では、見解は一致していた。

1919年に締結された国際連盟規約で戦争は違法とされたものの、このシステムは実効性を欠いた。1928年には米仏二か国の条約が拡大し、いわゆる「不戦条約」となった。この条約は自衛権の範囲が不明確であり、また―言葉遊びのようであるが―「戦争」未満の武力行為があり得た。「満州”事変”」がまさにそれである。

凄惨を極めた第二次大戦後、1945年には国際連合憲章において「武力行使」の一切を厳に慎む旨が規定された。「武力行使」という定義は、「戦争」と「事変」の間で線引きすることなく、広く網を掛けることを念頭に置いたものである。この規定は、「条約」を超え、こんにちでは慣習国際法と言ってよい。また違法とされた武力行使には、複数の例外が規定された点が重要であり、この解釈が現代的な課題となっている。すなわち例外の規定とは、例えば、自衛権(51条)、国連による軍事的措置(42条)、旧敵国への措置(53条)であり、自衛権をめぐる論点とは、以下の2つである。

  1. 必要性と均衡の要件
  2. 「武力攻撃」が現実の攻撃か。脅威がある段階で自衛してよいかという先制自衛の議論

■2つの「正しさ」~正戦論

条約において戦争が違法であるということが規定された。であれば、世界から戦争は一切無くなっただろうか。そうではない。直近ではロシアとウクライナの武力紛争は戦争と言ってよい規模になっているし、第二次大戦後の現代史の中でも「戦争」と名を冠する事件は数多い。

現実として起きてしまう戦争。そこに「正しさ」というものはあるだろうか。政治学では「正戦論」という分野で論じられるところである。そこでは2つの「正しさ」が議論になる。もっとも、「正戦論は、戦争をトピックごとに整理し、議論しやすくするツールであり、戦争の正しさについて、すっきりさせるものではない」(大庭弘嗣)

(1)ユス・アド・ベルム(Jus ad bellum)

戦争を始める際の正しさをいうという。その着眼点は、次の6つだ。

  1.  正しい理由「戦争を始める理由は、侵略などの不正に対抗するものであるべきである」
  2.  正統な機関「国連や国家による正統な権限の行使でなければならないである」
  3.  正しい意図「戦争を始めた目的が正しくても、その継続が不正であってはならない」
  4.  最終手段「戦争が、唯一の手段であったこと」
  5.  成功の合理的見込み
  6.  比例性開戦の際の利益が、戦争の結果として生じる害悪(破壊殺戮)と釣り合っていなければならない」

(2)ユス・イン・ベロ(Jus in bello)

戦時中の戦闘行為の正しさをいうという。その着眼点は、次の2つである。

  1.  戦闘員と非戦闘員の区別
  2.  (ミクロの)比例性

ロシアとウクライナについては…

今回の戦争でロシアは、「人道回廊」に地雷を設けたり、民間施設に爆撃したり、チェルノブイリ原発を攻撃したという。戦闘員と非戦闘員の区別をしていないという点で、ユス・イン・ベロのレベルで批判に値するだろう。他方で、ウクライナの市民が火炎瓶を投げて攻撃するという事実もあったようだ。国を守るために立ち上がった市民といえば目頭が熱くなるが、ロシアからすれば、「戦闘員と非戦闘員の区別ができないじゃないか」「少なくとも火炎瓶を投げてきたのは、実質的な戦闘員じゃないか」と批判することもできるのではないか。たとえば、ハーグ陸戦規則では、一定期間武器を携帯する民兵、義勇兵を含んで、戦闘員と定義しており(1977第1追加議定書)、必ずしも職業軍人に限られないと読むことができるだろう。

■伝統主義者と修正主義者

ウクライナから見れば、何の落ち度もないのにロシアが一方的に侵略してきた。これは納得できない。納得できない。祖国を守る必要がある。

ならば、その手段は無制限だろうか?

実際のところは知らないし、決してロシアを支持するわけではない。しかし、もし、同じような状況に陥った小国があったとしよう。ここで、たとえば民間人の恰好をした戦闘員や暗殺者を敵国に「避難」の名目で送り込むような策は許されるのか?あるいは、先に手を出されたら、過剰防衛ともいえる兵器を用いことはいいのか?ドローン爆弾の暗殺はどうか?この議論は、正戦論の中では、伝統主義者と修正主義者という枠組みで議論されるという。

(1)伝統主義者

第1が伝統主義者である。彼らはユス・アド・ベルムとユス・イン・ベロを独立のものと考える。なので、戦争の始まりの「正しさ」の議論とは別に、戦闘行為においては、当事者双方の兵士にユス・イン・ベロの規制が及ぶ。そうすると、先に仮定した過剰防衛は、やりすぎという結論に至るだろう。

(2)修正主義者

第2は修正主義者である。ユス・アド・ベルムとユス・イン・ベロを連鎖的に捉える。ユス・アド・ベルムにおいて不正な戦争に参加する兵士は、道徳的に劣るという。何故なら彼らは「不正な目的」のために戦っているからである。これを進めて考えると、不正のために戦う兵士は、正しい目的のために戦う兵士に対して暴力をなすことは許されない。逆に、正義のために戦う兵士の暴力は許容され得る。そうすると、先に仮定した過剰防衛は、許容される余地があろう。

■まとめ

戦争は国際法上違法である。しかし、条約は現実の戦争を必ずしも抑止しない。

マイケル・ウォルツァーは、「正義は軍事的な必須条件になった」といったそうだ。近時では、どんな戦争でも、それなりの建前を用意するだろう。そうすると竹を割ったように「正義と不正義」みたいな整理はできない。その中にあっては珍しく、今回のロシアは、国際世論への配慮が雑だったのではないかと思う。

いずれにせよ、我々は過去の凄惨な歴史の積み上げから、戦争に対して学問的にアプローチする複数の手段を手にしている。願わくは、これらの成果により、次代の戦争が減っていけばよいのだが。

■参考文献

  • 柳原正治『国際法』(放送大学教育振興会,2017)
  • 矢持力「正戦論の二大潮流の衝突 : 〈比例性〉の原則をめぐる論争」社会システム研究 (21), 69-80, 2018-03
  • 杉浦功一=大庭弘継『銀河英雄伝説に学ぶ政治学』(亜紀書房,2019)
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地方自治

「ひとり親」支援政策の現状と課題


放送大学大学院『福祉政策の課題』を契機に作成した文章である。ある自治体独自の施策を批判的に検討したもの。

子育て支援ネットワーク事業

自治体の甲市の「子育て支援ネットワーク事業(仮称)」の要綱は次にようになっている。

※特定を避けるため、一部改変

(趣旨)

・市は依頼者と協力会員を募り、ネットワーク化するとともに、その委託関係をあっせんする。

(定義)

依頼者:12歳到達年度末未満の子を養育する者をいう。

・協力会員:元保育士や子育てを終えた世代の者であって子育てに協力したいものをいう。

(利用条件)

・依頼者から協力会員へ1時間あたり300円の料金を支払うものとする。

(その他)

ひとり親、生活保護世帯等については、月額1万円を上限にした補助金を支給する。

この事業は、「依頼者」と「協力会員」として組織化することにより、保育園への送迎等※1の育児につき各会員を結びつけ、ネットワーク化するものである。「ひとり親世帯に対する施策」という訳ではないが、ひとり親等がこの事業を実施する場合に月額2万円を上限にした補助金が支給されることをふまえれば、ひとり親に対する独自の配慮がされている施策である評価できるだろう。

課題-ひとり親世帯を画一的に捉える姿勢

母子家庭の就労率の高さ※2に伴う育児の困難さや雇用形態の非正規雇用化という課題※3から考えれば、「ひとり親」の支援をしようとする甲市の姿勢は評価できる。その上で、この事業の問題点としてまず指摘したいのは、ひとり親を画一的に捉え、一律に対象としている点である。

第1に、補助金の交付に際し、所得要件を確認しないことである。父子家庭の方が母子家庭より所得が高い※4という結果が明らかであるにもかかわらず、所得制限を設けずに一律の補助としていることは、限られた予算による補助が「本当に援助を要する者」に届かない結果になりかねない。そもそも論になるが、補助に関し所得要件を設けない制度設計について、納税者へ合理的な説明ができるか疑問が否めない。

第2に、制度利用に際して世帯構成を確認しないことである。

  • 「ひとり親」と「それ以外の世帯」
  • 「ひとり親の中でも祖父母と同居している世帯」と「そうでない世帯」
  • 「就労するひとり親世帯」と「時間のある生活保護受給世帯」

これらの世帯では、育児の援助を要する時間の長短に差があるところ、甲市の制度では、この差異が制度利用に反映する建付けという訳ではなく、「ひとり親」であれば一律に取り扱っている。

以上から、この制度は、最も援助を要すると思われる「ひとり親と子のみの2人世帯であって、かつ低所得の世帯」に対しては、助成金の他にも、料金に上限を設ける等の制度も考えられ、課題を残している。

以上を踏まえて総括すれば、甲市の「子育て支援ネットワーク事業(仮称)」は、ひとり親の援助に関し最低限の配慮が認められるが、制度の粗さは否めない。当局には、運用実績に基づく制度の精緻化が求められるところである。

最後に、シングルマザーの長時間労働化と育児時間※5の減少が子の情操への影響が考えられることをふまえれば、当局においては、ひとり親の育児環境それ自体の対応というマクロ的・長期的な政策立案が求められる。

この意味で、この事業は、日々の育児に難儀する者の援助という対処療法的なものであり、決して最適解というものではないことを認識しなければならない。
(以 上)

参考文献

金川めぐみ「日本におけるひとり親世帯研究の動向と課題」(経済理論,wakayama economic review(369),2012,9)

  1. 保育施設等への送迎、始業前・終業後の預かり、児童の突発的疾病の際の預かりなど。
  2. ブラッドショー・埋橋孝文「ワンペアレント・ファミリーに対する税・社会保障給付パッケージ―20ヵ国国際比較を通して―」『季刊家計経済研究』33号(1997)62頁
  3. 阿部彩・大石亜希子「母子世帯の経済状況と社会保障」(国立社会保障・人口問題研究所編『子育て世帯の社会保障』(東京大学出版会,2005)所収
  4. 金川めぐみ「地域社会と福祉法制」大曾根寛ほか『福祉政策の課題―人権保障への道』(放送大学大学院,2018)所収 59頁
  5. 山田亮「父子家庭における仕事と家事の両立問題―経済的問題を中心に―」『流通科学通信No.89』(1999)79頁
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YouTubeが国際政治に与えた影響

放送大学『現代の国際政治』で作成したレポートが元ネタ。教科書が2013年版であるし、レポート作成が2017年なので、YouTubeの事情も随分変化しているとは思うが。

問題の所在

YouTubeは広く利用される動画投稿サイトである。誰でも比較的容易に動画を投稿することができ、その動画が全世界に向けて公開されるという特徴がある。では、このYouTubeをはじめとする動画投稿サイトは、国際政治にどのような影響を与えているだろうか。

国際政治への影響

この媒体が俄かに注目を集めたのは2010年のことである。仙閣諸島中国漁船衝突事故の映像が海上保安庁職員の一色正春氏によりYouTubeを介して公開されたのだ。我が国の政府は、当初この事故について「外交上の配慮」なる理由で当該映像を公表しないという方針であったとされるが、YouTubeへ映像が公開されたことにより事実を認めざるを得なくなった。つまり、この事件(あるいはこの媒体)は、次の2点において、国際政治に影響を与えたということができるだろう。

  1. YouTubeがなかったのであれば表に出なかったと思われる事実が明らかになったという点
  2. 政府が当初の外交上の方針を転換して事実として認めた点

アラブの春

このような特徴が国際政治の場で影響を与えた例として、2010年代の「アラブの春」と呼ばれる一連の民主化運動を例に挙げることができる。

従前、権威主義体制の下に置かれたアラブ諸国では既存のメディアは厳しい検閲に晒され、「政権にとって都合のよい情報」のみを発信してきた。このような状況の中で、チュニジアで地元政府への抗議の意を示すため青年が焼身自殺し、その映像が動画共有サイトに投稿される事件があった。この映像を契機に、次第に警察や軍隊による拷問や人権蹂躙の様子といった政府の検閲を受けない赤裸々な事実が動画共有サイトなどに投稿されはじめた。これらの動画は、視覚に訴求するメッセージであった。抗議運動につながる端緒となり、最終的にはチュニジア、エジプト、シリア等へ飛び火し、「アラブの春」と呼ばれる一連の運動に繋がった。

もっとも、2011年当時のチュニジアにおけるインターネット普及率が39.1%であったことをふまえれば、動画共有サイトが一連の運動への流れに決定的な影響を与えたと言い切ることは難しいという点は留意しなければならない。アラブの春においては、アルジャジーラという衛星放送が大きな役割を果たした。同局のエジプトに向けた放送内容と、バーレーンに向けた抑圧的な放送内容を比較すれば、ダブルスタンダードといってよい差異があり、つまり、同局はバイアスを有して報道していた。革命の機運が飛び火した国々と照らし合わせたとき、同局の担った役割が浮き彫りにされるところがある。

結論

以上の例が示すとおり、YouTubeをはじめとする動画共有サイトは、いずれも「従来であれば権力者により隠されてきたはずの情報を伝える」という特筆すべき役割を果たした。しかも、そのメッセージの形式は文字や文章ではなく動画であることから、直感的で大きなインパクトを伴う高い訴求力があるという特徴がある。これらの特徴から国際政治おいて注目すべき影響と効果を挙げており、今後、ますます目が離せない媒体の1つである。

参考として「マルチチュード」

アラブの春を議論する際、よく「マルチチュード」という言葉を目にする。これはアントニオ・ネグリとハートと共著『マルチチュード』による。

9.11を予言するものと評価された『<帝国>』のの続編であり
、彼らが現代における革命的な主体と考えるのは、従来の「プロレタリアート」ではなく、統一化されることのない複数の多様な「マルチチュード」(多数性・群集性)であるという議論である。彼らは国境を超えたネットワーク状の「帝国」がグローバリゼーションを通じて形成されていくと同時に、従来の国民国家を乗り越えるグローバル民主主義を推進する主体としてマルチチュードの登場を予見した。 『マルチチュード』で、現代世界における戦争状態を分析し、それがいかに民主主義を脅かすようになったか明らかにする。

■参考文献

  • 高橋和夫『現代の国際政治」(放送大学出版会,2013)
  • 岡村裕一朗『本当にわかる現代思想』188頁
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人文科学

「goodbye,halcyon days.」

私達
一つとして 混じりあうものはない
二つとして 同じ貌をしていない
三つ目の瞳を持たぬばかりに
四つ目の方角に希望はない
五つ目は心臓の場所にある

久保帯人『BLEACH』(27)

ブリーチのコミックスに書かれたオサレポエムの中で、最も好きなものの1つ。これについて少し考えてみる。

「三つ目の瞳」

3つ目の瞳。つまり第3の目。哲学や人文系では松果体をこのように言うことがある。

松果体についてはデカルトが言及している。彼の心身二元論では、心と身体が別のものであるなら、なぜ「右手よ動け」と念じると右手が動くのかという問題がある。この点、デカルトは、松果体が心と身体をつなぐ機関であると考え、やがて、松果体を「魂の在り処」と呼んだ。

【松果体】
デカルトは,松果体を精神の座とし,両眼で知覚された外界の現象は,脳の中を走る糸によって松果体へ伝えられ,松果体は,その刺激に応じて,〈精気(エスプリ)〉を中空の管によって全身の筋肉へ送ると考えた。松果体を精神の座とすることは間違いとしても,〈脳内の糸〉を神経,〈精気〉をホルモン,〈中空の管〉を血管と置き換えてみれば,現代の松果体機能に関する我々の知識によく符合する。

和気健二郎「松果体」『世界大百科事典(第2版)ベーシック版』

転じて、なのか、第3の目や松果体は、ヨガやニューエイジ、オカルト系で好まれるモチーフとなり、より高次のものに接触するために必要なものと捉えられる場合がある。

ここでは「三つ目の瞳」とは、問題や苦しみを乗り越えるための形而上的な理想ほどの意味ではないか。そして、「三つ目の瞳を持たない」とは、すなわち、我々がそのステージまで辿り着いていないということを指し示すのではないか。

「四つ目の方角」

麻雀でいえば「東南西北」。

日本語なら「東西南北」。

厳密な意味で方角に順序があるかは調べていないが、少なくとも我々の言語感覚では、四つ目の方角は「北」である。

では「北」とはなにか。この文字の由来は、一説には、2人の人が背を向けて逃げる象形文字である。

そうすると、何処へ逃げるというのだろうか。ここでハイデガーが想起される。勿論、ハイデガーを論じる力量などないことは十分に自覚していいるし、そもそもデカルトとは世界観が異なるので、ここで書くべきかどうかは甚だ迷う訳だが…。。

空疎な日常への逃避

ハイデガーの初歩の初歩について、富増章成氏がわかりやすく解説しているので、その記述をふまえつつ、多少言葉を補って記載しよう。

例えば、彼女から時計を贈られたとします。それをどう捉えるか。目の前にある時計のデザインや値段よりも、彼女の意図や気持ちの方へ注目が集まってしまう。或いは、後になって時計を見る度に彼女のことを思い出すかも知れない。つまり、彼女のプレゼントであるという主観的な部分も含めて時計である。

このように我々は世界に意味付けを行っている訳だが、目の前の時計の延長線上に彼女という他者が存在しているのであれば、意識(気遣い、配慮)は他者へと向かう。そして、他者との関係において自分を見るということは、悪くすれば、他者に支配され自分を見失うことにもつながりかねない。

「他人にどう思われているのか?」「どんな人なのか?」
自分自身のことよりも他者のことが気になり「おしゃべり」をしたり、或いは深刻に議論や意見表明をしているフリをしながら「世の中がおかしい」といった意味不明の曖昧な結論でお茶を濁す。

ハイデガーは、このような日常的な人間の在り方を、「ひと」と呼ぶそうだ。これこそが「頽落」した非本来的な在り方なのだと。自分と他人の差を気にして(疎隔性)、社会の一般的な価値観を無自覚に受け入れ、そこに自分の存在を見出して安心し(平均性)、独創性の芽を摘む(均質化)。

学校のクラスメートや職場の同僚と当たり障りのないおしゃべりをして、日々をやり過ごす、ごくありふれた日常の光景だ。ここでは対立が表面化しないので、たしかに穏やかな日々ですが、単行本のタイトルは、goo-bye halcyon days、つまり「サヨナラ、穏やかな日々よ」である。

「心臓の場所」

一般に「心」であろうか。

goodbye,halcyon days.の意訳を試みる

○意訳(妄想)
私たちは孤独な存在である。

世界には、こんなに人が溢れているのに、それぞれの考え方や価値観は多種多様であり1つとして同じものは存在しない。否。それどころか、顔や姿形すら、同じ者は2人と存在しない。

私たちを苛なむ孤独や不安を消し去るにはどうしたらいい?

他者と完全に理解し合い、深くつながり、争いも対立もない世界…。はるか昔から、私たちは、そんな理想に縋ってきたけど、結局、未だに辿り着けない。

だから逃げる生き方を覚えた。

他者とお互いに適度な距離で当たり障りのない話をする日々。みんなと同じでいれば、表面的には孤独や不安から目を逸らして、仮初めの安息を得ることができた。

でも、今日逃げたとしても明日。明日逃げたとしても明後日。逃げた先に希望なんてない。

これほど多くの人間で溢れながら、これほど冷たい孤独な世界で生きるためには、私たちは、自分自身の心を強くすることが必要なのだ。

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日高皇女の日記(小説)

『日本書紀』。
 祖父によって編纂の意思が示されてから30年近く過ぎたが、舎人親王らの代になり、ようやく最終稿がもたらされ、私の目の前に堆く積まれている。全30巻。「よく、まとめたものだ」と可笑しくなる。「神代紀」からはじまり、「持統天皇紀」に至る。持統天皇。私の祖母。鸕野讚良。私は、まとめられた歴史書を読みながら、祖母のことを思い出す——。

 祖母は幼い頃から馬で野山を駆けるのが好きで、そこで様々なことを学んだという。「天智天皇の皇女」という枠に嵌められることが苦手で、それを当然のように受け入れている姉妹とも仲が悪かったそうだ。一人は私の母でもあるが。ともあれ、そんな毎日からの解放、と薄い期待をしていた縁談の相手は、天智の弟である大海人皇子だったという。天智は祖父の気概を恐れていたのだろうか。祖母を含め、娘のうち4人を祖父に嫁がせた。

 やがて祖母は草壁皇子を産む。私の父だ。我が子への愛情。親心。あるいは姉妹への嫌悪感、劣等感、そして優越感。それらは月並みの感情だったかも知れないが、容れ物である祖母の器量や才能は月並みをはるかに凌駕していた。感情が彼女の中でないまぜになって、複雑に絡み合い、最終的に1つの思いに収束した。

「草壁を次の天皇へ」それは、祖母と母、そして私にとっての呪詛だった。

 父にはライバルがいた。祖母が嫌っていた姉である太田皇女の産んだ祖父の子で、大津皇子といった。壬申の乱で活躍したことにより祖父の覚えは良い。私は幼い日に一度だけ会ったことがあるが、時折見せるまなざしに祖父の面影が見え隠れしていた。要するに、祖母にしてみれば、邪魔者だ。

 679年。既に太田皇女は亡く、次いで有力な高市皇子は、人望はあっても母は単なる端女に過ぎない。そこで祖母は祖父の下に皇子を集め、その口から序列をつけさせようとした(吉野会盟)。しかし祖父が父を皇太子に指定するまでに、2年もの月日を要した。祖父の躊躇いは大津皇子への信頼の裏返しであり、それは祖母を苛立たせた。

 686年9月9日。病床にあった祖父が亡くなる。同月24日。川嶋皇子が大津皇子の謀反を告発した。まだ6つだった私も、その日の宮中の騒ぎはよく覚えている。特にその夜、祖母を訪ねてきた行心と名乗る僧は忘れることができない。古木のような痩身と、それに似合わぬ艶やかな声。この新羅人は、私をとても不安にさせた。翌月3日。大津皇子が訳語田宮で自害した。『日本書紀』のその日の記述に目を落とすと、「皇子の妃は髪をふり乱し、素足のままで狂おしく走り回った」と哀しい筆致で書かれている。
 奇妙なことに、大逆の謀反にかかわらず、大津とともに捕まえた30余人のほとんどが赦された。そういえば祖母は一度だけ行心と親しげに話をしていたのを見かけたことがある。あの枯れかけた腹話術の人形は、大津皇子に「皇子の相を見るに、久しく人の下位にあれば、恐らくは身を全くせざらむ」と祖母の言葉を囁いたようだ。あの不似合いな艶やかな声で。

 謀略の報いというものがあるのだろうか。3年も経たないうちに、父が死んだ。元々病弱な人だったので、予感はあった。しかし母と弟の軽皇子は、幾日も幾日も泣いていたのを覚えている。そして、祖母は、弱弱しく泣く母を強く叱責すると、すぐに背を向けて歩き出した。私は、祖母の一言を耳敏く聞いた。

――草壁の亡きうえは、その嫡流を玉座に。

 父の忘れ形見とはいえ、弟はまだ7つだ。さすがに即位には早い。祖母はいずれ弟に玉座を譲るため、自ら即位し、持統天皇と名乗った。女帝は過去に例がない訳ではないが、女帝から幼い孫に王位を譲るという話は寡聞にして知らない。しかし、並みの反論など、祖母にとっては意味を成さない。
 ほどなく弟が15歳に達すると、祖母は待ちかねたように譲位した。弟の縁談も日を置かず決まり、男子である首皇子を得た。祖母も久し振りの笑顔を見せたが、それはかつてのものではなく、少し暗い翳りを帯びていた。
 弟と3つ違いの私にも縁談は少なくなかったが、いつも破談になった。祖母にそのことを話すと、きまって古代の姉弟の話をしてくれた。狭穂彦と狭穂姫、倭迹迹日百襲姫と崇神、倭姫と日本武尊…。古来の姉は、弟の霊的守護者であり、姉弟には親子や夫婦よりも強い結びつきがあるのだそうだ。確かに弟は、父に似て身体が弱く、目を離すことができない。祖母は、弟の生命の残り時間ばかり気にしているようだった。

 ほどなく祖母が逝く。そして祖母の予感は、いつも悪い方にばかりよく当たった。707年。弟も逝く。まだ28歳だった。

 父と弟を喪った母の落胆は目を覆いたくなるものであり、その顔には明らかに生気がなかった。このまま母まで亡くなるのではないかとさえ思えた私は、何とか母を元気づけようと、祖母の言葉を引きながら言った。

――文武の子である首皇子を玉座に

 呪縛は再び機能した。母は自ら即位し、元明天皇となった。彼女は祖父の始めた歴史の編纂を継ぎ『古事記』を完成させた。そこには祖父に見せてもらった『天武天皇御識見本』とは異なる神話がある。天孫降臨だ。アマテラスが話を着けた後、孫のニニギが天下る。これは祖母と弟のそれと同じである。その鮮やかな譲位を神聖視したらしい母の造作だ。「こんな作り物で誰が納得するものか。」私は鼻で笑ったが、おそらくは、彼女なりの決意の表れだろう。しかし首皇子は6歳。即位の日までが長く、しかも母の才や胆力は、祖母とは較べるまでもない。祖母の思い、最愛の夫と息子の夭折、治世の重圧。これを一身に受けたとあっては、並みの神経など擦り切れてしまうだろう。私には、その日が、遠くないように思えてならない。

 715年。母は疲労困憊し、玉座を去った。祖母と母の悲願はどうするか…。考えるまでもない。今となっては私が引き継がねばなるまい。私が、弟の子の即位まで、草壁―文武皇統の玉座を守らねばならないのだ。

 玉座を守る。それも悪くない。

 私は即位し、40の声が聞こえる歳になって初めて夫を得た。遅すぎたそれは、私に様々なことを諦めさせた。子を産み育てるという人生は難しい。なので、祖母や母が憑かれた「子を思う親の気持ち」というものは私には理解できない。しかし、母の気持ちは分からずとも、彼女たちがしたように生きることにより、私にも彼女たちのような母性が備わるかも知れない…。そう思った。否。思いたかった。

 おかしな人生もあったものだ。嫁ぐこともなく、胸を震わせる思いも、子の温もりも知らない。いっそ市井の女に生まれた方が幸福であったかも知れぬ。自嘲して振り返ったとき、その状況を生み出した者の存在に対して震えた。

 弟の文武が即位した時、私は18歳。娘盛りだった。祖母の権力が絶頂にあったこともあり縁談も掃いて捨てる程あった。それが破談になる理由を誰も教えてくれなかった。思えば、数多の縁談は、誰かの意図によって破談になっていたのだ。誰の意図か。考えるまでもない。あの時代、それができるのは、祖母をおいて他にない。

 祖母は、文武が首皇子が即位できる年齢になるまでは生きていないだろうと見抜いていたに違いない。そこで首皇子の即位まで玉座を守る者が必要になる。その白羽の矢を私に立てたのだ。

 私にとって…。否。この時代の女性にとって、自分の意思などないに等しい。家のために都合のよい縁談をまとめられ嫁ぐ。祖母も母もそうだった。それが当たり前だった。そして、私に宛がわれた家のために尽くす方法が、他家に嫁ぐことではなく、弟が逝った際の予備としての役割だったに過ぎない。それは理解できる。しかし、ほとんどの女性が、翻弄されながらも、子を産み、育て、母になるという限られた自由がある中で、それが適わなかったことが寂しい。
 
 私は元正天皇として、後世の者が新たに書く歴史書に名を残すだろう。しかし、目の前で傅く臣下すら、私の治世を首皇子が成長するのを待つだけの日々と考えている。
 弟が逝ったときの予備。私の人生とは何だったのか…。逆に考えると、弟が逝ったことは、ある意味で幸せだったのかも知れない。これにより私の人生に幾ばくかの意味が生まれたのだから。
 
 弟の死によって得た居場所。考えれば可笑しくなる。
 ならば。天皇としての証を遺そう。約束された首皇子の即位までの9年。永遠に語り継がれる仕事をしよう。そして、私は、養老律令と三世一身法を整備し、隼人を討った。

 最後の仕事。それはおそらく、この『日本書紀』の編纂になるだろう。
 善悪美醜。様々な感情が交錯する宮廷史。私は、時に冷笑しながらそれを読む。僅かしかいない女帝のうち、実に3人がこの時代に集中し、しかも生み出したのは祖母である。

 全ては草壁―文武の皇統を遺すため。
 
 祖母の思いは、もはや血脈に深く塗り込めた執念といってよい。

 「高天原」か。母のまとめた『古事記』の中で天津神が住む世界の意で使われた言葉。祖母に準えたアマテラスが治める世界。なるほど。たしかに、祖母の特徴をよく表していると感心する。

 私は巻30「持統天皇紀」を開くと、一書の伝として、彼女の別名を加えた。

 「高天原廣野姫天皇」

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地方自治

DXの定義

少し前、「自治体の喫緊の課題」といわれ始めたのが「DX」である。

DXとは「デジタル・トランスフォーメーション」のことであり、2004年にスウェーデンのストルターマン教授によって提唱された概念である。その内容は「進化し続けるテクノロジーが人々の生活を豊かにしていく」ことをいう。

と、多くのDXの入門書には書いてある。ちなみにストルターマン教授は論文を発表した翌年にはアメリカのインディアナ大学に移籍している。

「DX」を唱えた記念碑的論文の題名は「INFORMATION TECHNOLOGY AND THE GOOD LIFE」。情報技術とよい生活というものである。あらゆるものがデジタル技術と結びつき、その時点で思いもつかなかったことができるようになる、という趣旨の論文であったという。

日本では、この概念はどう浸透したか。これに大きな役割を果たしたのは、経済産業省の「DXレポート」である(2018年9月)。

ここでは「2025年の崖」という言葉が使用される。この頃には、基幹系システムのサポート終了やIT人材の引退による人手不足の顕在化し、レガシーシステムの刷新が必要について警鐘を鳴らした。

DXレポート

国、自治体、民間企業は、現在、このDXという大きなうねりの中で翻弄されているのである。

参考
「特集 経営改革の最終兵器 DXって何?」『日経ビジネス』 2020/03/30号, 28〜33ページ

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人文科学

境(坂・辻)

NHK年末の人気ドラマ「岸部露伴は動かない」を観た。2021年の話は「坂」をキィワードとして不思議な世界や怪異へ遭遇した。2022年のキィワードは「四辻」であった。「坂」や「辻」と怪異と接続するのは、ドラマのオリジナルである。八木康幸「村境の象徴的意味」(関西学院大学,人文論究,34-3,1984)に即して、少し考えてみよう。

「境の場所」

「坂」「辻」。または峠や川、橋。これらの場所は、昔であれば村への関門のような場所であったと推測される(石塚尊俊,1940,56p)。すなわち境目である。こんにちでは、自治体の「境目」というと、地図に描かれた境界線をイメージする。しかし、折口信夫によれば「境は線ではなく、点」である(折口,1972,332p)。つまり「坂」や「辻」のような特定の点に集約される。

「坂」「辻」のような境では何が起こるだろうか?

八木康幸は、境は「日常と日常以外とを接続する回路」であるという。「辻」や「坂」とは、我々が普段から目にし、実際に経験できる日常的な場所である。それと同時に、そこでは神霊や魔性と直接的・間接的に交流することができる場所であるという。八木はこれを「境の場所」と呼んでいる。

「境の場所」の両義性

今回のドラマではどうだったか。

1話目は「四ツ辻」から不思議な神社(祠)に迷い込み、おかしな女性(俗にいうメンヘラ気質)と揉めるような話だった。災厄に見舞われたのは、四ツ辻に迷い込んだ露伴本人である。

2話目は「四ツ辻」で超常的な能力を得た少年と、命懸けのジャンケンをする話だった。露伴には災厄だが、四ツ辻の不思議に触れた少年の視点では、「意思(露伴を倒す)を実現する能力」を得たという意味でプラスの効果であった。少年の結末は幸せかどうか分からないが。

物語では、四ツ辻は、不思議に触れた者に災厄をもたらし、逆に特殊な力を与えている。災厄はマイナスであるし、特殊な力の発現はプラスである。この性格は、民俗学の指摘に沿う。憑神様・ジキトリ・ガキボトケ・ヒダル神などは峠・坂・四辻に現れるというが(桜井徳太郎,1966,108p)、憑神と言うのは、祀れば神になるし、祀らねば妖怪になる(原田敏明,1959,294)。両面両極端な性格(柳田國男,1962,228)なのだそうだ。

境は、「俺の村」でも「隣の村」でもない。どちらの村でもないなら、現実の「この世」ではないともいえる。では、境は「あの世」なのだろうか?

否。両義性というキィワードにに着目するならば、境は「俺の村」であり、同時に「隣の村」でもあるのだろう。これを広げれば、「この世」であり、同時に「あの世」なのだ。同時性・曖昧性が「俺の村」と「隣の村」を、「この世」と「あの世」を接続しているのではないか。だから、境から「隣の村の者」や「隣の村の疫病」や「あの世の神威や魔物」がやってくるのだろう。

こんにち、曖昧さは「優柔不断」と言われ好かれない。しかし、このドラマは、「どちらでもない」ことは、「どちらでもある」ことでもあるという見方を教えてくれる。「どちらでもある」。哲学的であり、あるいは量子力学的である。

近時は、0か1のデジタル全盛の世の中である。明確な切り分けは、世界をシンプルにする。シンプルな世界に不思議はない。デジタル原理主義みたいな考え方は、我が国が育んできた曖昧性という神秘を失わせるものではあるまいか。

参考文献

  • 八木康幸「村境の象徴的意味」(関西学院大学,人文論究,34-3,1984)
  • 《以下は孫引き》
  • 石塚尊俊「サヘノカミ序説」『国学院雑誌』46巻3号(1940)
  • 折口信夫『折口信夫全集第16巻 民俗学編』(中央公論社,1972)
  • 桜井徳太郎『民間信仰』(塙書房,1966)
  • 原田敏明「村の境」『社会と伝承』4号(1957)
  • 柳田國男「1目小僧その他」『定本柳田國男集第5巻』(筑摩書房,1962)
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人文科学

シン・ゴジラが象徴するもの。「シン」の意味とは何か

ヤシオリ作戦

作中、核攻撃により事態の収束を図る国連。しかし、東京の真ん中でそんなことをされれば、世界に冠たる大都市に大きな傷跡を残してしまう。他にゴジラをやっつける手立てがあれば核は使わなくてもいい。そんな状況でにわかに注目を集めたのが、血液凝固剤を経口摂取させることを要諦とした矢口蘭堂チームの作戦であり、「ヤシオリ作戦」と命名された。「ヤシオリ」とは、日本神話からの引用であり、スサノオがヤマタノオロチに飲ませた酒の名である。

命(引用者注:スサノオ)は、…アシナヅチとテナヅチとの老夫婦(引用者注:娘たちをオロチに餌食にされ泣いていた。スサノオは最後に残ったクシナダヒメを娶ろうとオロチ退治をする)に、次のように命じた。「お前たちは、八塩折(未詳。何度も、の意か)に絞りに絞った強い酒を醸し出せ…」

福永武彦訳『古事記』(河出文庫,2003)74頁

「八塩折」は、酒の名前ではなく、精製方法と言った方が正しいのかも知れないが、シン・ゴジラはヤマタノオロチに見立てられたのだろう。この怪物は、古事記においては「胴体には苔が蒸しており、…その腹を見れば、不断に血が流れ出して血膿のようにただれている、まったく恐ろしい」(前掲書73頁)とされており、なるほどシン・ゴジラの造形を想起させる部分がある。

では何故、このような見立てが行われたのか。検討の前提としてヤマタノオロチが何の象徴か検討する。これを斐伊川の氾濫の象徴と説くものが有力である。すなわちクシナダヒメを櫛名田(美しい田)と捉え、ヤマタノオロチを川の氾濫、スサノオの活躍を治水と考えるそうだ。斐伊川は良質の砂鉄で有名であり、オロチのお腹がジュクジュク赤かったのも、斐伊川の水が砂鉄を大量に含んでいたからと考えると、たしかに辻褄は合う。

ここで、自然の猛威=ヤマタノオロチ、そしてこれを治めるスサノオという関係性は、ゴジラとそれを治める矢口とオタクチームとぴったり当てはまるものである。

ゴジラの象徴するもの。「シン」の意味

では、ゴジラは何の象徴なのだろうか。この点を考えるに、庵野監督は3.11に強い思い入れがあった点を想起しよう。『エヴァンゲリオンQ』は3.11の負の影響から『破』からは考えられない作品となっていたし、今作においても放射能や半減期に言及がある。ここから、ヤマタノオロチが古代の人々の脅威である川の氾濫であるのと同様に、ゴジラが現代人にとって脅威である(と事故により再認識した)原子力発電の象徴と考えていたのではないだろうか。

しかし、このように考えると、ゴジラはヤマタノオロチとは一線を画するものであることに気付く。それは川の氾濫は自然の猛威であるが、原子力発電所は人の造りしものであることだ。ここで前者が天災で後者が人災というつもりはないが、後者は人間の営為が天災の被害を何百倍にも加算した事例と言えるだろう。

ここで注目されるのは、劇中で石原さとみが「ゴッジラ」と、Godを想起させるような発音だったことである。長山靖生は、-シン・ゴジラについてではなく、過去のゴジラについて―次のようにいう。

モスラはMotherのアナグラムであるように、帰るべき母体としての南洋を象徴している。…それに対し、その英名(Godzilla)にくっきりと「神(God)」の名を戴くゴジラはどうか。ゴジラは男性原理の象徴、荒ぶる神そのものであった。

長山靖生「怪獣はなぜ日本を襲うのか」(筑摩書房,2002)26頁

長山の指摘のまま解釈すれば、ゴジラは天災の類となる。しかし、検討したように、シン・ゴジラが象徴している3.11原発事故は単なる天災ではない。ヒトの営為が悲劇を倍加させたものだ。

赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』(イースト・プレス,2014)では、『ゴジラ』映画の基部には、南の海に散っていった若き兵士たちの数多の英霊という存在が無意識的に描かれているという(38頁)。これをふまえれば、初代ゴジラとは、戦争や水爆実験という人間の業により散った若き英霊の象徴、あるいは強烈な残留想念の集合体(「ゴジラ×モスラ×キングギドラ大怪獣総攻撃」)であり、こう考えると、やはりゴジラは単なる天災の象徴ではないのである。

ゴジラはヤマタノオロチとは明らかに異なる。その象徴するものはヒトの業による災厄である。そして、シン・ゴジラとは、かつての「戦争」や「水爆実験」に代わり、3.11によって危険性の再認識を迫った「原子力発電」をヒトの業として捉えているのではないだろうか。「戦争」から「原発」へ。これこそが「シン・ゴジラ」の「シン」に他ならないのではあるまいか。

ゴジラは災厄である。しかし純粋な天災ではなく、災厄の一端はヒトの業である。これが、ラストカットでヒトのように見えるゴジラの尻尾の意味ではなかろうか。

参考文献

  • 福永武彦訳『古事記』(河出文庫,2003)74頁
  • 長山靖生「怪獣はなぜ日本を襲うのか」(筑摩書房,2002)
  • 赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』(イースト・プレス,2014)
  • 山崎鎮親「メカゴジラの「南方」 : 東宝特撮怪獣映画作品における怪獣の「南方」問題」
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