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日高皇女の日記(小説)

『日本書紀』。
 祖父によって編纂の意思が示されてから30年近く過ぎたが、舎人親王らの代になり、ようやく最終稿がもたらされ、私の目の前に堆く積まれている。全30巻。「よく、まとめたものだ」と可笑しくなる。「神代紀」からはじまり、「持統天皇紀」に至る。持統天皇。私の祖母。鸕野讚良。私は、まとめられた歴史書を読みながら、祖母のことを思い出す——。

 祖母は幼い頃から馬で野山を駆けるのが好きで、そこで様々なことを学んだという。「天智天皇の皇女」という枠に嵌められることが苦手で、それを当然のように受け入れている姉妹とも仲が悪かったそうだ。一人は私の母でもあるが。ともあれ、そんな毎日からの解放、と薄い期待をしていた縁談の相手は、天智の弟である大海人皇子だったという。天智は祖父の気概を恐れていたのだろうか。祖母を含め、娘のうち4人を祖父に嫁がせた。

 やがて祖母は草壁皇子を産む。私の父だ。我が子への愛情。親心。あるいは姉妹への嫌悪感、劣等感、そして優越感。それらは月並みの感情だったかも知れないが、容れ物である祖母の器量や才能は月並みをはるかに凌駕していた。感情が彼女の中でないまぜになって、複雑に絡み合い、最終的に1つの思いに収束した。

「草壁を次の天皇へ」それは、祖母と母、そして私にとっての呪詛だった。

 父にはライバルがいた。祖母が嫌っていた姉である太田皇女の産んだ祖父の子で、大津皇子といった。壬申の乱で活躍したことにより祖父の覚えは良い。私は幼い日に一度だけ会ったことがあるが、時折見せるまなざしに祖父の面影が見え隠れしていた。要するに、祖母にしてみれば、邪魔者だ。

 679年。既に太田皇女は亡く、次いで有力な高市皇子は、人望はあっても母は単なる端女に過ぎない。そこで祖母は祖父の下に皇子を集め、その口から序列をつけさせようとした(吉野会盟)。しかし祖父が父を皇太子に指定するまでに、2年もの月日を要した。祖父の躊躇いは大津皇子への信頼の裏返しであり、それは祖母を苛立たせた。

 686年9月9日。病床にあった祖父が亡くなる。同月24日。川嶋皇子が大津皇子の謀反を告発した。まだ6つだった私も、その日の宮中の騒ぎはよく覚えている。特にその夜、祖母を訪ねてきた行心と名乗る僧は忘れることができない。古木のような痩身と、それに似合わぬ艶やかな声。この新羅人は、私をとても不安にさせた。翌月3日。大津皇子が訳語田宮で自害した。『日本書紀』のその日の記述に目を落とすと、「皇子の妃は髪をふり乱し、素足のままで狂おしく走り回った」と哀しい筆致で書かれている。
 奇妙なことに、大逆の謀反にかかわらず、大津とともに捕まえた30余人のほとんどが赦された。そういえば祖母は一度だけ行心と親しげに話をしていたのを見かけたことがある。あの枯れかけた腹話術の人形は、大津皇子に「皇子の相を見るに、久しく人の下位にあれば、恐らくは身を全くせざらむ」と祖母の言葉を囁いたようだ。あの不似合いな艶やかな声で。

 謀略の報いというものがあるのだろうか。3年も経たないうちに、父が死んだ。元々病弱な人だったので、予感はあった。しかし母と弟の軽皇子は、幾日も幾日も泣いていたのを覚えている。そして、祖母は、弱弱しく泣く母を強く叱責すると、すぐに背を向けて歩き出した。私は、祖母の一言を耳敏く聞いた。

――草壁の亡きうえは、その嫡流を玉座に。

 父の忘れ形見とはいえ、弟はまだ7つだ。さすがに即位には早い。祖母はいずれ弟に玉座を譲るため、自ら即位し、持統天皇と名乗った。女帝は過去に例がない訳ではないが、女帝から幼い孫に王位を譲るという話は寡聞にして知らない。しかし、並みの反論など、祖母にとっては意味を成さない。
 ほどなく弟が15歳に達すると、祖母は待ちかねたように譲位した。弟の縁談も日を置かず決まり、男子である首皇子を得た。祖母も久し振りの笑顔を見せたが、それはかつてのものではなく、少し暗い翳りを帯びていた。
 弟と3つ違いの私にも縁談は少なくなかったが、いつも破談になった。祖母にそのことを話すと、きまって古代の姉弟の話をしてくれた。狭穂彦と狭穂姫、倭迹迹日百襲姫と崇神、倭姫と日本武尊…。古来の姉は、弟の霊的守護者であり、姉弟には親子や夫婦よりも強い結びつきがあるのだそうだ。確かに弟は、父に似て身体が弱く、目を離すことができない。祖母は、弟の生命の残り時間ばかり気にしているようだった。

 ほどなく祖母が逝く。そして祖母の予感は、いつも悪い方にばかりよく当たった。707年。弟も逝く。まだ28歳だった。

 父と弟を喪った母の落胆は目を覆いたくなるものであり、その顔には明らかに生気がなかった。このまま母まで亡くなるのではないかとさえ思えた私は、何とか母を元気づけようと、祖母の言葉を引きながら言った。

――文武の子である首皇子を玉座に

 呪縛は再び機能した。母は自ら即位し、元明天皇となった。彼女は祖父の始めた歴史の編纂を継ぎ『古事記』を完成させた。そこには祖父に見せてもらった『天武天皇御識見本』とは異なる神話がある。天孫降臨だ。アマテラスが話を着けた後、孫のニニギが天下る。これは祖母と弟のそれと同じである。その鮮やかな譲位を神聖視したらしい母の造作だ。「こんな作り物で誰が納得するものか。」私は鼻で笑ったが、おそらくは、彼女なりの決意の表れだろう。しかし首皇子は6歳。即位の日までが長く、しかも母の才や胆力は、祖母とは較べるまでもない。祖母の思い、最愛の夫と息子の夭折、治世の重圧。これを一身に受けたとあっては、並みの神経など擦り切れてしまうだろう。私には、その日が、遠くないように思えてならない。

 715年。母は疲労困憊し、玉座を去った。祖母と母の悲願はどうするか…。考えるまでもない。今となっては私が引き継がねばなるまい。私が、弟の子の即位まで、草壁―文武皇統の玉座を守らねばならないのだ。

 玉座を守る。それも悪くない。

 私は即位し、40の声が聞こえる歳になって初めて夫を得た。遅すぎたそれは、私に様々なことを諦めさせた。子を産み育てるという人生は難しい。なので、祖母や母が憑かれた「子を思う親の気持ち」というものは私には理解できない。しかし、母の気持ちは分からずとも、彼女たちがしたように生きることにより、私にも彼女たちのような母性が備わるかも知れない…。そう思った。否。思いたかった。

 おかしな人生もあったものだ。嫁ぐこともなく、胸を震わせる思いも、子の温もりも知らない。いっそ市井の女に生まれた方が幸福であったかも知れぬ。自嘲して振り返ったとき、その状況を生み出した者の存在に対して震えた。

 弟の文武が即位した時、私は18歳。娘盛りだった。祖母の権力が絶頂にあったこともあり縁談も掃いて捨てる程あった。それが破談になる理由を誰も教えてくれなかった。思えば、数多の縁談は、誰かの意図によって破談になっていたのだ。誰の意図か。考えるまでもない。あの時代、それができるのは、祖母をおいて他にない。

 祖母は、文武が首皇子が即位できる年齢になるまでは生きていないだろうと見抜いていたに違いない。そこで首皇子の即位まで玉座を守る者が必要になる。その白羽の矢を私に立てたのだ。

 私にとって…。否。この時代の女性にとって、自分の意思などないに等しい。家のために都合のよい縁談をまとめられ嫁ぐ。祖母も母もそうだった。それが当たり前だった。そして、私に宛がわれた家のために尽くす方法が、他家に嫁ぐことではなく、弟が逝った際の予備としての役割だったに過ぎない。それは理解できる。しかし、ほとんどの女性が、翻弄されながらも、子を産み、育て、母になるという限られた自由がある中で、それが適わなかったことが寂しい。
 
 私は元正天皇として、後世の者が新たに書く歴史書に名を残すだろう。しかし、目の前で傅く臣下すら、私の治世を首皇子が成長するのを待つだけの日々と考えている。
 弟が逝ったときの予備。私の人生とは何だったのか…。逆に考えると、弟が逝ったことは、ある意味で幸せだったのかも知れない。これにより私の人生に幾ばくかの意味が生まれたのだから。
 
 弟の死によって得た居場所。考えれば可笑しくなる。
 ならば。天皇としての証を遺そう。約束された首皇子の即位までの9年。永遠に語り継がれる仕事をしよう。そして、私は、養老律令と三世一身法を整備し、隼人を討った。

 最後の仕事。それはおそらく、この『日本書紀』の編纂になるだろう。
 善悪美醜。様々な感情が交錯する宮廷史。私は、時に冷笑しながらそれを読む。僅かしかいない女帝のうち、実に3人がこの時代に集中し、しかも生み出したのは祖母である。

 全ては草壁―文武の皇統を遺すため。
 
 祖母の思いは、もはや血脈に深く塗り込めた執念といってよい。

 「高天原」か。母のまとめた『古事記』の中で天津神が住む世界の意で使われた言葉。祖母に準えたアマテラスが治める世界。なるほど。たしかに、祖母の特徴をよく表していると感心する。

 私は巻30「持統天皇紀」を開くと、一書の伝として、彼女の別名を加えた。

 「高天原廣野姫天皇」

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