苅部直「都市空間と政治」から
放送大学「政治学へのいざない」のテキストにおいて苅部直氏が担当する「都市空間と政治」では、阿部公房の『箱男』を題材としている部分がある。箱男は段ボール箱をかぶり、小さな穴から外を眺めており、外からは彼を把握できないという特徴がある。
ある一人の人物について、国家権力はその名前、職業などさまざまな情報を登録し、その人が本物であることを確認しようとする。これに対して箱男はそうした登録を徹底して拒み、本物か偽物かという区別を宙吊りにしてしまう、不穏な存在なのである。したがって、人々の日常生活を管理しようとする国家権力からすれば、強く警戒すべき存在ということになるだろう。
苅部直「都市空間と政治」御厨貴=山岡 龍一『政治学へのいざない』(2016,放送大学教育振興会)117P
国家にとって統治とは民を管理することだったと言えるかも知れない。古代律令制国家では、戸籍に登録し、口分田を班給したり移動の制限、田租の徴収を行った。戸籍に「登録」することは律令国家の人民支配の根幹であった(鎌田元一)。
戸籍は罰則に担保された強制的な登録である。その登録を拒否しようとすれば、まさに箱でも被るしかなく、世間から奇異の目で見られよう。
では、マイナンバーはどうか。たしかに番号は附番されるが、2023年現在、このマイナンバーカードを作るメリットはない。しかし、万が一マイナンバーカードを持つ国民が多数派になれば、カードを持たない人間は、あたかも箱を被って街を歩くように奇異な存在として見られるのだろうか?
マイナンバーカードと名実一体思想
マイナンバーカードと個人情報の関係
マイナンバー制度やマイナンバーカードには慎重な意見が少なくない。感覚的には「個人情報の危機」のような文脈が多いように感じる。しかし、カードそのものに個人情報が格納されている訳ではなく、また「カードの作成を申請しなければ個人情報が守られる」という訳でない。
後者について捕捉すれば、マイナンバーカード関係の申請は、(1)カード作成申請、(2)健康保険紐づけ申請、(3)公金受取口座登録申請である。(2)をしなければマイナンバーカードと健康保険証は別のままだし、(3)をしなければ行政はその口座を知る由もない。ここから「(1)の申請をしなければ行政が個人情報を収集して紐づけない」と考えがちだが、必ずしもそうではない。カードの有無にかかわらずマイナンバーは附番されているし、申請に関係なくマイナンバーと一定の個人情報は紐づけられている(だろう)。
ふまえて考えれば、マイナンバーカードを作ることを避けても、個人情報のリスクにおいては大きな利点にはならないと思われる。ならば何故、少なくない反対派がおり、議論が巻き起こるのか?そして、何故、僕自身は、この制度に得体の知れない怖さを感じるのだろうか。
名実一体思想
それは僕にとって、誰かに個人的な情報を握られることは「暴かれた」のと同義だからである。これには少なからぬ共感が得られるのではなかろうか。
たとえば岩手県や山形県の民話に「大工と鬼六」というものがある。これは鬼が橋を架ける→その対価として大工の目を奪おうとする→鬼は「儂の名を当てたら許してやる」と賭けをする→大工は名を言い当てて助かるという話だ。同じような民話は、ドイツのルンペンシュティルツヒェン、イギリスのトム・ティット・トットなどがあり、これらも魔物が名を知られて力を失う話である。近年では「Fate」というゲームの設定にも見られた。
次に穂積陳重が定義した「実名敬避俗」という風習を考えよう。これは貴人や親など目上の人間の実名を口にしたり書いたりすることを禁忌としてきたというものだ。我が国だけでなく、中国の字や諱もそうで、こちらは周の『礼記』にまで遡る歴史があるという(勝村哲也)。
「実名敬避俗」の背景にあるものこそ、名実一体の思想である(堀田幸義)。詳細は調査中であるが、「名を知られれば、本体をからめとられるもの同じ」的な意味だろう。『西遊記』の名を呼ばれて返事をすると吸い込まれるという金角・銀角の紫金紅葫蘆のようなイメージだ。
この意味で、僕の「知られること=暴かれること=弱みを握られること。」という観念は、あながち素っ頓狂ではないのではないか。逆に「名を知られて云々」という民話は、僕のような人間の強迫観念めいた思いが生み出したのもではないのかとさえ思ってしまう。
さて。『箱男』は、マイナンバー時代に示唆を与える寓話として、新たな読み方が必要となっているのではなかろうか。
参考
鎌田元一「戸籍」『世界大百科事典』
勝村哲也「字」同。
堀田幸義「近代武家社会における実名敬避俗と禁字法令」(史学雑誌,112(2003)10号)