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日本の精神科医療の歴史的展開

問題の所在

日本の精神科医療が欧米諸国と大きく異なっていた歴史的経過について考える。

我が国の精神科医療は、障害者の治療を重視していた欧米諸国のそれと大きく異なり、隔離的な入院措置が重視されていた。この背景は何か。

ライシャワー事件以前

18世紀までは日本と欧米を問わず、精神障害に対する理解と研究が進まない状況にあった。

しかし、フランス革命期にPh.ピネルが心理的療法を提唱し、精神障害の治療という概念が登場した。これを「鉄鎖からの解放」という標語で表すこともある。ピネル以降、J.E.D.エスキロール、W.チュークらを経て、S.フロイト、E.クレペリン,E.ブロイラーの登場により、現代精神医学が基礎付けられた。

これに対し我が国においては、精神障害者を「狐憑き」等と呼び、家庭内の座敷牢へ隔離することが主たる対応であった。精神病を患う旧中村藩藩主相馬誠胤の監禁をめぐる相馬事件を契機に精神病者監護法が制定されたものの(1900年)、同法は私宅監置を合法化するにとどまり、精神障害者の処遇や治療への配慮を欠いた内容であった。これについては呉秀三らの「精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的観察」により、時代錯誤的欠陥を批判された。

その後、道府県による精神科病院の設置を促進する精神科病院法が制定されるものの(1919年)、私宅監置は後を絶たず、1935年には入院患者2,000人に対し私宅監置は7,000人に上る状況にあった。

戦後、基本的人権の尊重や社会権といった理念をふまえ、精神衛生法(1950年)において私宅監置が禁じられるが、他方で強制入院制度について禁じられることなく、同意入院と措置入院に整理されるに留まった。同法については、厚生省による衛発729号(1961.9.16)により、拡大解釈が行われるとともに貧困救済の側面を含む運用がなされ、更に衛発311号(1961.9.11)による、措置入院に対する国庫負担率の引き上げによる措置入院の拡大は、私立病院を指定病院として代替することが認められていたこととあいまって、私立精神病院の建設ラッシュを招くことになった。これは、公立病院が主である欧米とは異なる日本の特色であると言える。そして、1965年には、病院数は1,200を、病床数は20万を越えた

ライシャワー事件~宇都宮病院事件

西洋に目を転じれば、1952年にJ.ドレイによりクロルプロマジンの抗精神病作用が発見されたことによる向精神薬の開発と導入により、1960年代以降の精神医学は一変した。閉鎖病棟から開放病棟や通院治療へと治療の現場が移行し(脱施設化)、患者の社会復帰を目指すリバビリテーション(社会療法)及び地域精神医学という潮流が生まれた。

この時期、これらの情報や技術の流入により、我が国においても、従前の隔離的な政策や入院治療から、開放化と短期入院の方向で精神衛生法の改正が検討される時期にあった。

しかし、その矢先である1964年にライシャワー駐日アメリカ大使が精神障害者に襲われるという事件が発生した。これは精神科医療の歴史に暗い陰を落とすことになる。池田隼人総理は「こういう患者を急いで取り締まれるように対処せよ」という趣旨の指示を行い、精神衛生法は、緊急措置入院制度が強化される方向へ改正された(1965年)。この対応は、精神障害者の人権という方向へ傾きかけていた医学的あるいは政治的状況を、再び社会防衛思想の方向へ揺り戻すターニングポイントとなった。

1970年代以降も、我が国では精神障害者の社会復帰促進が実現されない状況が続くこととなった。この背景には、精神衛生法による入院制度のほとんどが営利を目的とする民間病院への入院であり、受け手側においては、満床を維持するために入院の必要のない者を長期入院させるという構造上の問題により、精神科病院の数と患者数は拡大し続けることになった。同時に、必要とされる精神医療従事者を確保することが困難となり、やがて1984年の宇都宮病院事件発覚に至る。

宇都宮病院事件により明らかになったのは、同病院における超過入院、極端な医師や看護婦不足、でたらめな診療等の違反行為であった。この事件を受けて厚生省は「極めて特殊なケース」であるとしていたが、NGO国際人権連盟は1984.9月発出の文書において17の病院を挙げ、宇都宮病院は「氷山の一角」であるとしている(1984.9.17朝日新聞夕刊)。

この事件の経緯の検証の結果、行政機関は民間病院の問題を黙認したうえで精神障害者を精神病院に送り、いわば弱みを知る立場にあった宇都宮病院院長の態度は、今日の精神科医療に携わる者から見れば信じられないような点が見受けられた。この事件発覚後に、群馬県のT病院や栃木県のS病院などでも暴行があった旨の告発があり、根の深さが浮き彫りにされた(1984.912朝日新聞朝刊)。宇都宮病院事件は、最も悪い意味で、我が国の精神障害者の隔離の歴史を象徴するものであったと位置付けることができるだろう。

この事件が、国内にとどまらず諸外国の批判にさらされたことは論を待たないが、特筆すべき点として1984年の国連人権小委員会での指摘がある。これを受けるかたちで、精神衛生法は精神保健法に抜本改正されることになった。精神保健法の主眼は、①精神障害者の人権尊重、②社会復帰のための施設の具体化、③入院制度の改革と再編である。ここにいたって、ようやく我が国でも、欧米の精神科医療と同じ方向へ進むための最低限の法制度の整備が行われたと評価できる。

まとめ

以上検討したとおり、欧米の精神科医療が、比較的早い段階から精神障害者の治療と社会復帰という方向性を有していたのに対し、我が国の精神科医療は、一定の政治的環境により、欧米とは異なる制約があった。すなわち、日本が近代国家として成立した明治以来、国家が発展するためには、精神障害者は「反秩序者」として、秩序維持のために隔離されるべきであるという社会防衛論的背景がそれである。この点、精神保健法以降は、法制度等の政治的環境の点では問題は一定程度是正され、結果として精神科医療は治療と社会復帰を目的とするものへ発展している。

しかし、今日においてもマスコミが、報道において精神科病院への通院歴を報道している例に見られるように、国民の精神障害者に対する前時代的な偏見は、完全に払拭されているとは言い難い点があり、国民一人一人の意識改革が、残された課題であるといえる。

 (以 上)

参考文献

リンクを貼らせていただいたサイトのほか

  • 藤野ヤヨイ「我が国における精神障害者処遇の歴史的変遷-法制度を中心に-」(新潟青陵大学紀要第5号2005)
  • 山下剛利「精神衛生法一部改正」精神医療,1981
  • 岡田靖雄「ライシャワー事件をめぐって-精神衛生法をめぐる諸問題」東京,松沢病院医局病院問題研究会,1964
  • 山下剛利「精神衛生法批判」東京,日本評論社,1985
  • 浅井邦彦「スティグマと差別を超えて」東京哲学書房,2004
  • 小谷野博 (著), 富田三樹生 (監修) 『図解雑学 精神分析 (図解雑学シリーズ) 』ナツメ社,2001
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人文科学

「goodbye,halcyon days.」

私達
一つとして 混じりあうものはない
二つとして 同じ貌をしていない
三つ目の瞳を持たぬばかりに
四つ目の方角に希望はない
五つ目は心臓の場所にある

久保帯人『BLEACH』(27)

ブリーチのコミックスに書かれたオサレポエムの中で、最も好きなものの1つ。これについて少し考えてみる。

「三つ目の瞳」

3つ目の瞳。つまり第3の目。哲学や人文系では松果体をこのように言うことがある。

松果体についてはデカルトが言及している。彼の心身二元論では、心と身体が別のものであるなら、なぜ「右手よ動け」と念じると右手が動くのかという問題がある。この点、デカルトは、松果体が心と身体をつなぐ機関であると考え、やがて、松果体を「魂の在り処」と呼んだ。

【松果体】
デカルトは,松果体を精神の座とし,両眼で知覚された外界の現象は,脳の中を走る糸によって松果体へ伝えられ,松果体は,その刺激に応じて,〈精気(エスプリ)〉を中空の管によって全身の筋肉へ送ると考えた。松果体を精神の座とすることは間違いとしても,〈脳内の糸〉を神経,〈精気〉をホルモン,〈中空の管〉を血管と置き換えてみれば,現代の松果体機能に関する我々の知識によく符合する。

和気健二郎「松果体」『世界大百科事典(第2版)ベーシック版』

転じて、なのか、第3の目や松果体は、ヨガやニューエイジ、オカルト系で好まれるモチーフとなり、より高次のものに接触するために必要なものと捉えられる場合がある。

ここでは「三つ目の瞳」とは、問題や苦しみを乗り越えるための形而上的な理想ほどの意味ではないか。そして、「三つ目の瞳を持たない」とは、すなわち、我々がそのステージまで辿り着いていないということを指し示すのではないか。

「四つ目の方角」

麻雀でいえば「東南西北」。

日本語なら「東西南北」。

厳密な意味で方角に順序があるかは調べていないが、少なくとも我々の言語感覚では、四つ目の方角は「北」である。

では「北」とはなにか。この文字の由来は、一説には、2人の人が背を向けて逃げる象形文字である。

そうすると、何処へ逃げるというのだろうか。ここでハイデガーが想起される。勿論、ハイデガーを論じる力量などないことは十分に自覚していいるし、そもそもデカルトとは世界観が異なるので、ここで書くべきかどうかは甚だ迷う訳だが…。。

空疎な日常への逃避

ハイデガーの初歩の初歩について、富増章成氏がわかりやすく解説しているので、その記述をふまえつつ、多少言葉を補って記載しよう。

例えば、彼女から時計を贈られたとします。それをどう捉えるか。目の前にある時計のデザインや値段よりも、彼女の意図や気持ちの方へ注目が集まってしまう。或いは、後になって時計を見る度に彼女のことを思い出すかも知れない。つまり、彼女のプレゼントであるという主観的な部分も含めて時計である。

このように我々は世界に意味付けを行っている訳だが、目の前の時計の延長線上に彼女という他者が存在しているのであれば、意識(気遣い、配慮)は他者へと向かう。そして、他者との関係において自分を見るということは、悪くすれば、他者に支配され自分を見失うことにもつながりかねない。

「他人にどう思われているのか?」「どんな人なのか?」
自分自身のことよりも他者のことが気になり「おしゃべり」をしたり、或いは深刻に議論や意見表明をしているフリをしながら「世の中がおかしい」といった意味不明の曖昧な結論でお茶を濁す。

ハイデガーは、このような日常的な人間の在り方を、「ひと」と呼ぶそうだ。これこそが「頽落」した非本来的な在り方なのだと。自分と他人の差を気にして(疎隔性)、社会の一般的な価値観を無自覚に受け入れ、そこに自分の存在を見出して安心し(平均性)、独創性の芽を摘む(均質化)。

学校のクラスメートや職場の同僚と当たり障りのないおしゃべりをして、日々をやり過ごす、ごくありふれた日常の光景だ。ここでは対立が表面化しないので、たしかに穏やかな日々ですが、単行本のタイトルは、goo-bye halcyon days、つまり「サヨナラ、穏やかな日々よ」である。

「心臓の場所」

一般に「心」であろうか。

goodbye,halcyon days.の意訳を試みる

○意訳(妄想)
私たちは孤独な存在である。

世界には、こんなに人が溢れているのに、それぞれの考え方や価値観は多種多様であり1つとして同じものは存在しない。否。それどころか、顔や姿形すら、同じ者は2人と存在しない。

私たちを苛なむ孤独や不安を消し去るにはどうしたらいい?

他者と完全に理解し合い、深くつながり、争いも対立もない世界…。はるか昔から、私たちは、そんな理想に縋ってきたけど、結局、未だに辿り着けない。

だから逃げる生き方を覚えた。

他者とお互いに適度な距離で当たり障りのない話をする日々。みんなと同じでいれば、表面的には孤独や不安から目を逸らして、仮初めの安息を得ることができた。

でも、今日逃げたとしても明日。明日逃げたとしても明後日。逃げた先に希望なんてない。

これほど多くの人間で溢れながら、これほど冷たい孤独な世界で生きるためには、私たちは、自分自身の心を強くすることが必要なのだ。

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日高皇女の日記(小説)

『日本書紀』。
 祖父によって編纂の意思が示されてから30年近く過ぎたが、舎人親王らの代になり、ようやく最終稿がもたらされ、私の目の前に堆く積まれている。全30巻。「よく、まとめたものだ」と可笑しくなる。「神代紀」からはじまり、「持統天皇紀」に至る。持統天皇。私の祖母。鸕野讚良。私は、まとめられた歴史書を読みながら、祖母のことを思い出す——。

 祖母は幼い頃から馬で野山を駆けるのが好きで、そこで様々なことを学んだという。「天智天皇の皇女」という枠に嵌められることが苦手で、それを当然のように受け入れている姉妹とも仲が悪かったそうだ。一人は私の母でもあるが。ともあれ、そんな毎日からの解放、と薄い期待をしていた縁談の相手は、天智の弟である大海人皇子だったという。天智は祖父の気概を恐れていたのだろうか。祖母を含め、娘のうち4人を祖父に嫁がせた。

 やがて祖母は草壁皇子を産む。私の父だ。我が子への愛情。親心。あるいは姉妹への嫌悪感、劣等感、そして優越感。それらは月並みの感情だったかも知れないが、容れ物である祖母の器量や才能は月並みをはるかに凌駕していた。感情が彼女の中でないまぜになって、複雑に絡み合い、最終的に1つの思いに収束した。

「草壁を次の天皇へ」それは、祖母と母、そして私にとっての呪詛だった。

 父にはライバルがいた。祖母が嫌っていた姉である太田皇女の産んだ祖父の子で、大津皇子といった。壬申の乱で活躍したことにより祖父の覚えは良い。私は幼い日に一度だけ会ったことがあるが、時折見せるまなざしに祖父の面影が見え隠れしていた。要するに、祖母にしてみれば、邪魔者だ。

 679年。既に太田皇女は亡く、次いで有力な高市皇子は、人望はあっても母は単なる端女に過ぎない。そこで祖母は祖父の下に皇子を集め、その口から序列をつけさせようとした(吉野会盟)。しかし祖父が父を皇太子に指定するまでに、2年もの月日を要した。祖父の躊躇いは大津皇子への信頼の裏返しであり、それは祖母を苛立たせた。

 686年9月9日。病床にあった祖父が亡くなる。同月24日。川嶋皇子が大津皇子の謀反を告発した。まだ6つだった私も、その日の宮中の騒ぎはよく覚えている。特にその夜、祖母を訪ねてきた行心と名乗る僧は忘れることができない。古木のような痩身と、それに似合わぬ艶やかな声。この新羅人は、私をとても不安にさせた。翌月3日。大津皇子が訳語田宮で自害した。『日本書紀』のその日の記述に目を落とすと、「皇子の妃は髪をふり乱し、素足のままで狂おしく走り回った」と哀しい筆致で書かれている。
 奇妙なことに、大逆の謀反にかかわらず、大津とともに捕まえた30余人のほとんどが赦された。そういえば祖母は一度だけ行心と親しげに話をしていたのを見かけたことがある。あの枯れかけた腹話術の人形は、大津皇子に「皇子の相を見るに、久しく人の下位にあれば、恐らくは身を全くせざらむ」と祖母の言葉を囁いたようだ。あの不似合いな艶やかな声で。

 謀略の報いというものがあるのだろうか。3年も経たないうちに、父が死んだ。元々病弱な人だったので、予感はあった。しかし母と弟の軽皇子は、幾日も幾日も泣いていたのを覚えている。そして、祖母は、弱弱しく泣く母を強く叱責すると、すぐに背を向けて歩き出した。私は、祖母の一言を耳敏く聞いた。

――草壁の亡きうえは、その嫡流を玉座に。

 父の忘れ形見とはいえ、弟はまだ7つだ。さすがに即位には早い。祖母はいずれ弟に玉座を譲るため、自ら即位し、持統天皇と名乗った。女帝は過去に例がない訳ではないが、女帝から幼い孫に王位を譲るという話は寡聞にして知らない。しかし、並みの反論など、祖母にとっては意味を成さない。
 ほどなく弟が15歳に達すると、祖母は待ちかねたように譲位した。弟の縁談も日を置かず決まり、男子である首皇子を得た。祖母も久し振りの笑顔を見せたが、それはかつてのものではなく、少し暗い翳りを帯びていた。
 弟と3つ違いの私にも縁談は少なくなかったが、いつも破談になった。祖母にそのことを話すと、きまって古代の姉弟の話をしてくれた。狭穂彦と狭穂姫、倭迹迹日百襲姫と崇神、倭姫と日本武尊…。古来の姉は、弟の霊的守護者であり、姉弟には親子や夫婦よりも強い結びつきがあるのだそうだ。確かに弟は、父に似て身体が弱く、目を離すことができない。祖母は、弟の生命の残り時間ばかり気にしているようだった。

 ほどなく祖母が逝く。そして祖母の予感は、いつも悪い方にばかりよく当たった。707年。弟も逝く。まだ28歳だった。

 父と弟を喪った母の落胆は目を覆いたくなるものであり、その顔には明らかに生気がなかった。このまま母まで亡くなるのではないかとさえ思えた私は、何とか母を元気づけようと、祖母の言葉を引きながら言った。

――文武の子である首皇子を玉座に

 呪縛は再び機能した。母は自ら即位し、元明天皇となった。彼女は祖父の始めた歴史の編纂を継ぎ『古事記』を完成させた。そこには祖父に見せてもらった『天武天皇御識見本』とは異なる神話がある。天孫降臨だ。アマテラスが話を着けた後、孫のニニギが天下る。これは祖母と弟のそれと同じである。その鮮やかな譲位を神聖視したらしい母の造作だ。「こんな作り物で誰が納得するものか。」私は鼻で笑ったが、おそらくは、彼女なりの決意の表れだろう。しかし首皇子は6歳。即位の日までが長く、しかも母の才や胆力は、祖母とは較べるまでもない。祖母の思い、最愛の夫と息子の夭折、治世の重圧。これを一身に受けたとあっては、並みの神経など擦り切れてしまうだろう。私には、その日が、遠くないように思えてならない。

 715年。母は疲労困憊し、玉座を去った。祖母と母の悲願はどうするか…。考えるまでもない。今となっては私が引き継がねばなるまい。私が、弟の子の即位まで、草壁―文武皇統の玉座を守らねばならないのだ。

 玉座を守る。それも悪くない。

 私は即位し、40の声が聞こえる歳になって初めて夫を得た。遅すぎたそれは、私に様々なことを諦めさせた。子を産み育てるという人生は難しい。なので、祖母や母が憑かれた「子を思う親の気持ち」というものは私には理解できない。しかし、母の気持ちは分からずとも、彼女たちがしたように生きることにより、私にも彼女たちのような母性が備わるかも知れない…。そう思った。否。思いたかった。

 おかしな人生もあったものだ。嫁ぐこともなく、胸を震わせる思いも、子の温もりも知らない。いっそ市井の女に生まれた方が幸福であったかも知れぬ。自嘲して振り返ったとき、その状況を生み出した者の存在に対して震えた。

 弟の文武が即位した時、私は18歳。娘盛りだった。祖母の権力が絶頂にあったこともあり縁談も掃いて捨てる程あった。それが破談になる理由を誰も教えてくれなかった。思えば、数多の縁談は、誰かの意図によって破談になっていたのだ。誰の意図か。考えるまでもない。あの時代、それができるのは、祖母をおいて他にない。

 祖母は、文武が首皇子が即位できる年齢になるまでは生きていないだろうと見抜いていたに違いない。そこで首皇子の即位まで玉座を守る者が必要になる。その白羽の矢を私に立てたのだ。

 私にとって…。否。この時代の女性にとって、自分の意思などないに等しい。家のために都合のよい縁談をまとめられ嫁ぐ。祖母も母もそうだった。それが当たり前だった。そして、私に宛がわれた家のために尽くす方法が、他家に嫁ぐことではなく、弟が逝った際の予備としての役割だったに過ぎない。それは理解できる。しかし、ほとんどの女性が、翻弄されながらも、子を産み、育て、母になるという限られた自由がある中で、それが適わなかったことが寂しい。
 
 私は元正天皇として、後世の者が新たに書く歴史書に名を残すだろう。しかし、目の前で傅く臣下すら、私の治世を首皇子が成長するのを待つだけの日々と考えている。
 弟が逝ったときの予備。私の人生とは何だったのか…。逆に考えると、弟が逝ったことは、ある意味で幸せだったのかも知れない。これにより私の人生に幾ばくかの意味が生まれたのだから。
 
 弟の死によって得た居場所。考えれば可笑しくなる。
 ならば。天皇としての証を遺そう。約束された首皇子の即位までの9年。永遠に語り継がれる仕事をしよう。そして、私は、養老律令と三世一身法を整備し、隼人を討った。

 最後の仕事。それはおそらく、この『日本書紀』の編纂になるだろう。
 善悪美醜。様々な感情が交錯する宮廷史。私は、時に冷笑しながらそれを読む。僅かしかいない女帝のうち、実に3人がこの時代に集中し、しかも生み出したのは祖母である。

 全ては草壁―文武の皇統を遺すため。
 
 祖母の思いは、もはや血脈に深く塗り込めた執念といってよい。

 「高天原」か。母のまとめた『古事記』の中で天津神が住む世界の意で使われた言葉。祖母に準えたアマテラスが治める世界。なるほど。たしかに、祖母の特徴をよく表していると感心する。

 私は巻30「持統天皇紀」を開くと、一書の伝として、彼女の別名を加えた。

 「高天原廣野姫天皇」

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境(坂・辻)

NHK年末の人気ドラマ「岸部露伴は動かない」を観た。2021年の話は「坂」をキィワードとして不思議な世界や怪異へ遭遇した。2022年のキィワードは「四辻」であった。「坂」や「辻」と怪異と接続するのは、ドラマのオリジナルである。八木康幸「村境の象徴的意味」(関西学院大学,人文論究,34-3,1984)に即して、少し考えてみよう。

「境の場所」

「坂」「辻」。または峠や川、橋。これらの場所は、昔であれば村への関門のような場所であったと推測される(石塚尊俊,1940,56p)。すなわち境目である。こんにちでは、自治体の「境目」というと、地図に描かれた境界線をイメージする。しかし、折口信夫によれば「境は線ではなく、点」である(折口,1972,332p)。つまり「坂」や「辻」のような特定の点に集約される。

「坂」「辻」のような境では何が起こるだろうか?

八木康幸は、境は「日常と日常以外とを接続する回路」であるという。「辻」や「坂」とは、我々が普段から目にし、実際に経験できる日常的な場所である。それと同時に、そこでは神霊や魔性と直接的・間接的に交流することができる場所であるという。八木はこれを「境の場所」と呼んでいる。

「境の場所」の両義性

今回のドラマではどうだったか。

1話目は「四ツ辻」から不思議な神社(祠)に迷い込み、おかしな女性(俗にいうメンヘラ気質)と揉めるような話だった。災厄に見舞われたのは、四ツ辻に迷い込んだ露伴本人である。

2話目は「四ツ辻」で超常的な能力を得た少年と、命懸けのジャンケンをする話だった。露伴には災厄だが、四ツ辻の不思議に触れた少年の視点では、「意思(露伴を倒す)を実現する能力」を得たという意味でプラスの効果であった。少年の結末は幸せかどうか分からないが。

物語では、四ツ辻は、不思議に触れた者に災厄をもたらし、逆に特殊な力を与えている。災厄はマイナスであるし、特殊な力の発現はプラスである。この性格は、民俗学の指摘に沿う。憑神様・ジキトリ・ガキボトケ・ヒダル神などは峠・坂・四辻に現れるというが(桜井徳太郎,1966,108p)、憑神と言うのは、祀れば神になるし、祀らねば妖怪になる(原田敏明,1959,294)。両面両極端な性格(柳田國男,1962,228)なのだそうだ。

境は、「俺の村」でも「隣の村」でもない。どちらの村でもないなら、現実の「この世」ではないともいえる。では、境は「あの世」なのだろうか?

否。両義性というキィワードにに着目するならば、境は「俺の村」であり、同時に「隣の村」でもあるのだろう。これを広げれば、「この世」であり、同時に「あの世」なのだ。同時性・曖昧性が「俺の村」と「隣の村」を、「この世」と「あの世」を接続しているのではないか。だから、境から「隣の村の者」や「隣の村の疫病」や「あの世の神威や魔物」がやってくるのだろう。

こんにち、曖昧さは「優柔不断」と言われ好かれない。しかし、このドラマは、「どちらでもない」ことは、「どちらでもある」ことでもあるという見方を教えてくれる。「どちらでもある」。哲学的であり、あるいは量子力学的である。

近時は、0か1のデジタル全盛の世の中である。明確な切り分けは、世界をシンプルにする。シンプルな世界に不思議はない。デジタル原理主義みたいな考え方は、我が国が育んできた曖昧性という神秘を失わせるものではあるまいか。

参考文献

  • 八木康幸「村境の象徴的意味」(関西学院大学,人文論究,34-3,1984)
  • 《以下は孫引き》
  • 石塚尊俊「サヘノカミ序説」『国学院雑誌』46巻3号(1940)
  • 折口信夫『折口信夫全集第16巻 民俗学編』(中央公論社,1972)
  • 桜井徳太郎『民間信仰』(塙書房,1966)
  • 原田敏明「村の境」『社会と伝承』4号(1957)
  • 柳田國男「1目小僧その他」『定本柳田國男集第5巻』(筑摩書房,1962)
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シン・ゴジラが象徴するもの。「シン」の意味とは何か

ヤシオリ作戦

作中、核攻撃により事態の収束を図る国連。しかし、東京の真ん中でそんなことをされれば、世界に冠たる大都市に大きな傷跡を残してしまう。他にゴジラをやっつける手立てがあれば核は使わなくてもいい。そんな状況でにわかに注目を集めたのが、血液凝固剤を経口摂取させることを要諦とした矢口蘭堂チームの作戦であり、「ヤシオリ作戦」と命名された。「ヤシオリ」とは、日本神話からの引用であり、スサノオがヤマタノオロチに飲ませた酒の名である。

命(引用者注:スサノオ)は、…アシナヅチとテナヅチとの老夫婦(引用者注:娘たちをオロチに餌食にされ泣いていた。スサノオは最後に残ったクシナダヒメを娶ろうとオロチ退治をする)に、次のように命じた。「お前たちは、八塩折(未詳。何度も、の意か)に絞りに絞った強い酒を醸し出せ…」

福永武彦訳『古事記』(河出文庫,2003)74頁

「八塩折」は、酒の名前ではなく、精製方法と言った方が正しいのかも知れないが、シン・ゴジラはヤマタノオロチに見立てられたのだろう。この怪物は、古事記においては「胴体には苔が蒸しており、…その腹を見れば、不断に血が流れ出して血膿のようにただれている、まったく恐ろしい」(前掲書73頁)とされており、なるほどシン・ゴジラの造形を想起させる部分がある。

では何故、このような見立てが行われたのか。検討の前提としてヤマタノオロチが何の象徴か検討する。これを斐伊川の氾濫の象徴と説くものが有力である。すなわちクシナダヒメを櫛名田(美しい田)と捉え、ヤマタノオロチを川の氾濫、スサノオの活躍を治水と考えるそうだ。斐伊川は良質の砂鉄で有名であり、オロチのお腹がジュクジュク赤かったのも、斐伊川の水が砂鉄を大量に含んでいたからと考えると、たしかに辻褄は合う。

ここで、自然の猛威=ヤマタノオロチ、そしてこれを治めるスサノオという関係性は、ゴジラとそれを治める矢口とオタクチームとぴったり当てはまるものである。

ゴジラの象徴するもの。「シン」の意味

では、ゴジラは何の象徴なのだろうか。この点を考えるに、庵野監督は3.11に強い思い入れがあった点を想起しよう。『エヴァンゲリオンQ』は3.11の負の影響から『破』からは考えられない作品となっていたし、今作においても放射能や半減期に言及がある。ここから、ヤマタノオロチが古代の人々の脅威である川の氾濫であるのと同様に、ゴジラが現代人にとって脅威である(と事故により再認識した)原子力発電の象徴と考えていたのではないだろうか。

しかし、このように考えると、ゴジラはヤマタノオロチとは一線を画するものであることに気付く。それは川の氾濫は自然の猛威であるが、原子力発電所は人の造りしものであることだ。ここで前者が天災で後者が人災というつもりはないが、後者は人間の営為が天災の被害を何百倍にも加算した事例と言えるだろう。

ここで注目されるのは、劇中で石原さとみが「ゴッジラ」と、Godを想起させるような発音だったことである。長山靖生は、-シン・ゴジラについてではなく、過去のゴジラについて―次のようにいう。

モスラはMotherのアナグラムであるように、帰るべき母体としての南洋を象徴している。…それに対し、その英名(Godzilla)にくっきりと「神(God)」の名を戴くゴジラはどうか。ゴジラは男性原理の象徴、荒ぶる神そのものであった。

長山靖生「怪獣はなぜ日本を襲うのか」(筑摩書房,2002)26頁

長山の指摘のまま解釈すれば、ゴジラは天災の類となる。しかし、検討したように、シン・ゴジラが象徴している3.11原発事故は単なる天災ではない。ヒトの営為が悲劇を倍加させたものだ。

赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』(イースト・プレス,2014)では、『ゴジラ』映画の基部には、南の海に散っていった若き兵士たちの数多の英霊という存在が無意識的に描かれているという(38頁)。これをふまえれば、初代ゴジラとは、戦争や水爆実験という人間の業により散った若き英霊の象徴、あるいは強烈な残留想念の集合体(「ゴジラ×モスラ×キングギドラ大怪獣総攻撃」)であり、こう考えると、やはりゴジラは単なる天災の象徴ではないのである。

ゴジラはヤマタノオロチとは明らかに異なる。その象徴するものはヒトの業による災厄である。そして、シン・ゴジラとは、かつての「戦争」や「水爆実験」に代わり、3.11によって危険性の再認識を迫った「原子力発電」をヒトの業として捉えているのではないだろうか。「戦争」から「原発」へ。これこそが「シン・ゴジラ」の「シン」に他ならないのではあるまいか。

ゴジラは災厄である。しかし純粋な天災ではなく、災厄の一端はヒトの業である。これが、ラストカットでヒトのように見えるゴジラの尻尾の意味ではなかろうか。

参考文献

  • 福永武彦訳『古事記』(河出文庫,2003)74頁
  • 長山靖生「怪獣はなぜ日本を襲うのか」(筑摩書房,2002)
  • 赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』(イースト・プレス,2014)
  • 山崎鎮親「メカゴジラの「南方」 : 東宝特撮怪獣映画作品における怪獣の「南方」問題」
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殺生石について

契機と目的

2022年3月。那須の殺生石が割れたとニュースになった。殺生石とは九尾の狐(玉藻前)を封じた石で、これが割れるのは不吉であるという話を耳にした記憶がある。このあたりの典拠を調査し、某かの考察を試みるのが本項の目的である。

「殺生石」の話-前半部分と後半部分-

殺生石の話の出典を調査したところ、次の作品に言及があるということが分かった。

  • 『下野の伝説』
  • 『那須群誌』
  • 『玉藻前物語』
  • 『那須記』
  • 『下野国志』
  • 『和漢三才図絵』
  • 『甲子夜話』
  • 『東遊雑記』
  • 『下野風土記』
  • 『愛知県伝説集』
  • 『日本伝説名彙』
  • 『作陽誌』


横井教章氏(「殺生石」伝説考-宗教人類学の方法と視座から-,駒澤大学仏教学部論集30-1999-10)によれば、によれば、これらの伝説は前半と後半に分けることができるという。

  • 【前半】
  • 九尾の狐が玉藻前に憑依し鳥羽院に近づくが、陰陽師阿倍泰成に見破られ、那須へ逃げる。
  • 勅命を受けた三浦介・上総介が追い詰める。
  • 【後半】
  • 弓で射られた九尾は怨霊になり石に憑依。この石が毒気で近づくものを殺すので「殺生石」と呼ばれた。
  • 源翁心昭という曹洞宗の禅僧は玉藻前の亡霊から話を聞き供養する。九尾の狐も成仏。
  • このとき源翁は、杖で石を砕いた。以後、両端を切り落としたかたちの金槌を「げんのう」と呼んだ。

また横井氏は、これらの伝説について、次のような指摘をしている。

  • この伝説につき、美濃部重克氏は、怪婚譚、怪物退治譚、百科全書的知識、犬追物由来、殺生石伝説などの重層的結合を指摘したらしい。
  • 登場人物の対比として、阿倍泰成や玉藻前が中央、これに対し、後半の源翁心昭や殺生石が周辺を担うという二重構造的である。

若干の考察。殺生石と教訓

殺生石は那須のみではない

この他にも、芸能をみれば、作者不明の能の作品に殺生石の話がある。大筋は上記と同じであって、天竺・唐土・日本で悪さをしてた妖狐が那須に逃げて巨石になったとする。そして僧が仏事を営むと石が割れ妖狐が登場する。仏事で悪心が去ったとし、消え失せるという。

先に検討した伝説、あるいは能の出し物をみれば、物語(とその物語が語る歴史)の中で、殺生石は既に割れている。では、何故後世に生きる我々の前に殺生石があるのだろうか。殺生石が現存し、我々に「割るな」という禁忌を課すには、物語で割れた殺生石とは別の石に再び封じられないと理屈が立たないのではないか。

なぜ、現在も殺生石は割れぬまま存在しているのか。

そのヒントになりそうなのが、「殺生石」は固有名詞ではなく、複数存在するということだ。

火山・温泉などの傍で噴出する硫化水素や亜硫酸ガスで鳥や虫が死ぬことがあり、その噴気孔付近の石を俗に殺生石と呼ぶ。那須町は無論温泉であり、件の石のあるところは那須湯本という温泉場である。那須のほかにも大分の大船山、九住宇山などにも殺生石と呼ばれるものがある。

参照:村井勇・戸塚ひろみ「殺生石」『世界大百科事典(第2版)ベーシック版』

教訓の象徴・アイコンとしての殺生石

有毒ガスの科学的知識のない時代、そこで生物や人が死ぬ様を見た人々が、その理不尽な死を説明するため、玉藻前や妖狐の伝説を生み出したのではないだろうか。ガス溜まりで身体が重くなる現象が「妖怪・子泣き爺」を生んだという説にも通じる話である。

そして、そういう伝説を用いることで、危険な石に人々(特に子供)近づけないようにするシステムだったとは考えられないだろうか。たしかヨーロッパの童話などはこの傾向があった。中世の森は政治犯などが逃げ込んだ危険な空間であり、子どもを森から遠ざけるために「森の魔女」のような話が生まれたという話を聞いた記憶がある。

そうだとするならば、教訓の象徴としての「殺生石」は、割れずに今日も存しなければならなかった。つまり、このあたりに、伝説では解決した九尾の狐に係る殺生石が、今日でも存在する理由があるのではなかろうか。

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坂/境目

趣旨

NHKの人気ドラマ「岸部露伴は動かない」において「坂」に怪異が起きる。「坂」が不思議な世界と繋がっていると描かれた。興味を持ったので調べた経過。

後山智香「境界としての《坂》-神話的空間からの脱却-」

京都語文(25),佛教大学国語国文学会,197-209,2017

概要

  • 『古事記』には、葦原中国・高天原・黄泉など複数の国が存在する。葦原中国と黄泉・根の堅州国の間には「黄泉ひら坂」、綿津見神の宮との間には「海坂」があり、いずれも物語で塞がれる。
  • 『古事記』は葦原中国を中心に描き、その他の国は葦原中国との関係性においてしか存在しないという視点(注3)が重要である。「坂」は、葦原中国を規定するための空間として捉えられるのではないか。

先行研究

  • 本居宣長がいうには「坂は堺の義にて、海神の国と此上国の間、隔たりある処」「万葉集1740の”海界”も此と全同」。万葉集では、浦島子が海界を過ぎると、海神の神の娘子と出会い常世に至るとある。
  • しかし、表記の差異があるのに、同様に解してよいだろうか。『古事記』では「界」は用例がなく、「堺」の用例は3件。そのうち2件は、土地を区切る境目の意味。「坂」の用例は53件。姜金植の分析によれば、その機能は(1)境界/(2)通路/(3)要塞/(4)呪的な場(祭祀の場)の4つである。
  • 海坂は、海宮と葦原中国をつなぐ通路。しかし、豊玉毘売命が海坂を塞いだ後も、2国の往来は閉ざされていない。
  • 村上桃子は、「塞」の用例分析を通し、【「塞」は通行を止めるだけでなく、夫婦関係において離別を決定付けるものとして働くとする。→豊玉毘売命が火遠理命と「これ以上は夫婦として共に暮らせない」という意味で塞いだ。なので他の人の往来は妨害しない。神々との関係という観点で見れば、坂はつなぐための坂ではなく、別れるための坂である
  • しかし、「神々の関係」を夫婦関係に終始させるのは問題ないだろうか。

海坂と黄泉ひら坂の相違

(1) 海坂
火遠理命が禁忌を破ったため、豊玉毘売命が帰る際に塞いだ。塞いだ後も、豊玉毘売命の側からは往来できた。そもそも火遠理命は、異界の者(塩椎神など)の協力がなければ異界を往来できなかった。
(2) 黄泉ひら坂
黄泉から逃げる訪問者の側で塞いだ。異界や外部の者が超えることを防ぐものとして機能する。イザナギは「相見むと欲す」だけで異界を訪問できた。オオアナムヂは訪問の方法が示されない。

  • 三浦佑之は、「境界は共同体において外部を認識してはじめて存在する。逆にいえば、境界が内部を存在させる。この意味で境界を論じることは、共同体そのものを論じることである。」「坂とは、本質的な差異をもたらす内部と外部との接点というべき空間である」という。
  • 黄泉ひら坂は、外部に対する内部としての葦原中国を規定する。同様に、「『古事記』」上巻の最後に配置される海坂は、重要な意味を有する。
  • 黄泉ひら坂と海坂は、塞ぐ主体が異なる点に注目すべきである。海坂は、禁忌を破られた異界の側から塞がれたのである。
  • 綿津見神の宮側には境界が存在しない。豊玉毘売命によって塞がれ、葦原中国側からは超えられないが、異界の側からは、依然として自由に往来できる。海坂という境界によって、葦原中国を拒絶する。海坂という線を引かれるかたちでエピソードが終了する。このエピソードの配置に着目すれば、『古事記に』は葦原中国を天下へつなげようとする意図が見える。それは、この物語を通して、天皇が支配する領域を確定することである。
  • つまり、海坂は、ヒトと異形を分け、天皇はヒトの世界を支配するものであり、黄泉ひら坂は生と死を区分けし、天皇は生の世界を支配するものである。

原論文引用文献

  • 後山智香「日本神話における<異界>との関係性―「葦原中国」の世界観をめぐって」『京都語文』第15号,2008
  • 姜金植:「古事記の境界線―「坂」を中心に―」「東アジア研究」第17号,2007
  • 村上桃子:「葦原中国と海原―「塞二海坂一」をめぐって」『古事記年報』49,2007
  • 三浦佑之「境界-<坂>をめぐって」『万葉の歌と環境』笠間書院,1996


その他の覚書、思いつき

A.ファン・ヘネップ『通過儀礼』(1909)

誕生・成人・結婚など転機に、その前段階から次へ移行するため通過儀礼を行うという。通過儀礼は、(1)分離(これまで)→(2)過渡→(3)統合(新しい社会的地位を得る)という過程をいうらしい。

例えば、
時間的には、独身→婚約→結婚
空間的には、戦場→凱旋門→市街

エドマンド・リーチとメアリー・ダクラス

切れ目のない連続である自然を人工的に区切るものを、「境界」と呼んだ。ここには、不気味なもの、禁忌が集中し、儀礼を要求するという。

思いつき的なメモ

近時、AKBとか乃木坂、欅坂なんとかというアイドルが人気だ。
彼女たちのコピーの中に、(少なくともAKBには)「会いに行けるアイドル」というものがあった。彼女たちは、たしかに可愛い。それは間違いない。しかし、名の通った女優のように息を飲むような美貌や、憑かれたような演技力があるか?あるいは名を遺す歌手のような圧倒的な訴求力があるだろうか?

そう考えると、まさに彼女らは、我々一般人と、綺羅星のような芸能界の境目に居るのではないか。ゆえに「坂」を名乗るのか。そして、そこに、独特の魅力があるのだろうか。

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