問題の所在
日本の精神科医療が欧米諸国と大きく異なっていた歴史的経過について考える。
我が国の精神科医療は、障害者の治療を重視していた欧米諸国のそれと大きく異なり、隔離的な入院措置が重視されていた。この背景は何か。
ライシャワー事件以前
18世紀までは日本と欧米を問わず、精神障害に対する理解と研究が進まない状況にあった。
しかし、フランス革命期にPh.ピネルが心理的療法を提唱し、精神障害の治療という概念が登場した。これを「鉄鎖からの解放」という標語で表すこともある。ピネル以降、J.E.D.エスキロール、W.チュークらを経て、S.フロイト、E.クレペリン,E.ブロイラーの登場により、現代精神医学が基礎付けられた。
これに対し我が国においては、精神障害者を「狐憑き」等と呼び、家庭内の座敷牢へ隔離することが主たる対応であった。精神病を患う旧中村藩藩主相馬誠胤の監禁をめぐる相馬事件を契機に精神病者監護法が制定されたものの(1900年)、同法は私宅監置を合法化するにとどまり、精神障害者の処遇や治療への配慮を欠いた内容であった。これについては呉秀三らの「精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的観察」により、時代錯誤的欠陥を批判された。
その後、道府県による精神科病院の設置を促進する精神科病院法が制定されるものの(1919年)、私宅監置は後を絶たず、1935年には入院患者2,000人に対し私宅監置は7,000人に上る状況にあった。
戦後、基本的人権の尊重や社会権といった理念をふまえ、精神衛生法(1950年)において私宅監置が禁じられるが、他方で強制入院制度について禁じられることなく、同意入院と措置入院に整理されるに留まった。同法については、厚生省による衛発729号(1961.9.16)により、拡大解釈が行われるとともに貧困救済の側面を含む運用がなされ、更に衛発311号(1961.9.11)による、措置入院に対する国庫負担率の引き上げによる措置入院の拡大は、私立病院を指定病院として代替することが認められていたこととあいまって、私立精神病院の建設ラッシュを招くことになった。これは、公立病院が主である欧米とは異なる日本の特色であると言える。そして、1965年には、病院数は1,200を、病床数は20万を越えた。
ライシャワー事件~宇都宮病院事件
西洋に目を転じれば、1952年にJ.ドレイによりクロルプロマジンの抗精神病作用が発見されたことによる向精神薬の開発と導入により、1960年代以降の精神医学は一変した。閉鎖病棟から開放病棟や通院治療へと治療の現場が移行し(脱施設化)、患者の社会復帰を目指すリバビリテーション(社会療法)及び地域精神医学という潮流が生まれた。
この時期、これらの情報や技術の流入により、我が国においても、従前の隔離的な政策や入院治療から、開放化と短期入院の方向で精神衛生法の改正が検討される時期にあった。
しかし、その矢先である1964年にライシャワー駐日アメリカ大使が精神障害者に襲われるという事件が発生した。これは精神科医療の歴史に暗い陰を落とすことになる。池田隼人総理は「こういう患者を急いで取り締まれるように対処せよ」という趣旨の指示を行い、精神衛生法は、緊急措置入院制度が強化される方向へ改正された(1965年)。この対応は、精神障害者の人権という方向へ傾きかけていた医学的あるいは政治的状況を、再び社会防衛思想の方向へ揺り戻すターニングポイントとなった。
1970年代以降も、我が国では精神障害者の社会復帰促進が実現されない状況が続くこととなった。この背景には、精神衛生法による入院制度のほとんどが営利を目的とする民間病院への入院であり、受け手側においては、満床を維持するために入院の必要のない者を長期入院させるという構造上の問題により、精神科病院の数と患者数は拡大し続けることになった。同時に、必要とされる精神医療従事者を確保することが困難となり、やがて1984年の宇都宮病院事件発覚に至る。
宇都宮病院事件により明らかになったのは、同病院における超過入院、極端な医師や看護婦不足、でたらめな診療等の違反行為であった。この事件を受けて厚生省は「極めて特殊なケース」であるとしていたが、NGO国際人権連盟は1984.9月発出の文書において17の病院を挙げ、宇都宮病院は「氷山の一角」であるとしている(1984.9.17朝日新聞夕刊)。
この事件の経緯の検証の結果、行政機関は民間病院の問題を黙認したうえで精神障害者を精神病院に送り、いわば弱みを知る立場にあった宇都宮病院院長の態度は、今日の精神科医療に携わる者から見れば信じられないような点が見受けられた。この事件発覚後に、群馬県のT病院や栃木県のS病院などでも暴行があった旨の告発があり、根の深さが浮き彫りにされた(1984.912朝日新聞朝刊)。宇都宮病院事件は、最も悪い意味で、我が国の精神障害者の隔離の歴史を象徴するものであったと位置付けることができるだろう。
この事件が、国内にとどまらず諸外国の批判にさらされたことは論を待たないが、特筆すべき点として1984年の国連人権小委員会での指摘がある。これを受けるかたちで、精神衛生法は精神保健法に抜本改正されることになった。精神保健法の主眼は、①精神障害者の人権尊重、②社会復帰のための施設の具体化、③入院制度の改革と再編である。ここにいたって、ようやく我が国でも、欧米の精神科医療と同じ方向へ進むための最低限の法制度の整備が行われたと評価できる。
まとめ
以上検討したとおり、欧米の精神科医療が、比較的早い段階から精神障害者の治療と社会復帰という方向性を有していたのに対し、我が国の精神科医療は、一定の政治的環境により、欧米とは異なる制約があった。すなわち、日本が近代国家として成立した明治以来、国家が発展するためには、精神障害者は「反秩序者」として、秩序維持のために隔離されるべきであるという社会防衛論的背景がそれである。この点、精神保健法以降は、法制度等の政治的環境の点では問題は一定程度是正され、結果として精神科医療は治療と社会復帰を目的とするものへ発展している。
しかし、今日においてもマスコミが、報道において精神科病院への通院歴を報道している例に見られるように、国民の精神障害者に対する前時代的な偏見は、完全に払拭されているとは言い難い点があり、国民一人一人の意識改革が、残された課題であるといえる。
(以 上)
参考文献
リンクを貼らせていただいたサイトのほか
- 藤野ヤヨイ「我が国における精神障害者処遇の歴史的変遷-法制度を中心に-」(新潟青陵大学紀要第5号2005)
- 山下剛利「精神衛生法一部改正」精神医療,1981
- 岡田靖雄「ライシャワー事件をめぐって-精神衛生法をめぐる諸問題」東京,松沢病院医局病院問題研究会,1964
- 山下剛利「精神衛生法批判」東京,日本評論社,1985
- 浅井邦彦「スティグマと差別を超えて」東京哲学書房,2004
- 小谷野博 (著), 富田三樹生 (監修) 『図解雑学 精神分析 (図解雑学シリーズ) 』ナツメ社,2001