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日高皇女の日記(小説)

『日本書紀』。
 祖父によって編纂の意思が示されてから30年近く過ぎたが、舎人親王らの代になり、ようやく最終稿がもたらされ、私の目の前に堆く積まれている。全30巻。「よく、まとめたものだ」と可笑しくなる。「神代紀」からはじまり、「持統天皇紀」に至る。持統天皇。私の祖母。鸕野讚良。私は、まとめられた歴史書を読みながら、祖母のことを思い出す——。

 祖母は幼い頃から馬で野山を駆けるのが好きで、そこで様々なことを学んだという。「天智天皇の皇女」という枠に嵌められることが苦手で、それを当然のように受け入れている姉妹とも仲が悪かったそうだ。一人は私の母でもあるが。ともあれ、そんな毎日からの解放、と薄い期待をしていた縁談の相手は、天智の弟である大海人皇子だったという。天智は祖父の気概を恐れていたのだろうか。祖母を含め、娘のうち4人を祖父に嫁がせた。

 やがて祖母は草壁皇子を産む。私の父だ。我が子への愛情。親心。あるいは姉妹への嫌悪感、劣等感、そして優越感。それらは月並みの感情だったかも知れないが、容れ物である祖母の器量や才能は月並みをはるかに凌駕していた。感情が彼女の中でないまぜになって、複雑に絡み合い、最終的に1つの思いに収束した。

「草壁を次の天皇へ」それは、祖母と母、そして私にとっての呪詛だった。

 父にはライバルがいた。祖母が嫌っていた姉である太田皇女の産んだ祖父の子で、大津皇子といった。壬申の乱で活躍したことにより祖父の覚えは良い。私は幼い日に一度だけ会ったことがあるが、時折見せるまなざしに祖父の面影が見え隠れしていた。要するに、祖母にしてみれば、邪魔者だ。

 679年。既に太田皇女は亡く、次いで有力な高市皇子は、人望はあっても母は単なる端女に過ぎない。そこで祖母は祖父の下に皇子を集め、その口から序列をつけさせようとした(吉野会盟)。しかし祖父が父を皇太子に指定するまでに、2年もの月日を要した。祖父の躊躇いは大津皇子への信頼の裏返しであり、それは祖母を苛立たせた。

 686年9月9日。病床にあった祖父が亡くなる。同月24日。川嶋皇子が大津皇子の謀反を告発した。まだ6つだった私も、その日の宮中の騒ぎはよく覚えている。特にその夜、祖母を訪ねてきた行心と名乗る僧は忘れることができない。古木のような痩身と、それに似合わぬ艶やかな声。この新羅人は、私をとても不安にさせた。翌月3日。大津皇子が訳語田宮で自害した。『日本書紀』のその日の記述に目を落とすと、「皇子の妃は髪をふり乱し、素足のままで狂おしく走り回った」と哀しい筆致で書かれている。
 奇妙なことに、大逆の謀反にかかわらず、大津とともに捕まえた30余人のほとんどが赦された。そういえば祖母は一度だけ行心と親しげに話をしていたのを見かけたことがある。あの枯れかけた腹話術の人形は、大津皇子に「皇子の相を見るに、久しく人の下位にあれば、恐らくは身を全くせざらむ」と祖母の言葉を囁いたようだ。あの不似合いな艶やかな声で。

 謀略の報いというものがあるのだろうか。3年も経たないうちに、父が死んだ。元々病弱な人だったので、予感はあった。しかし母と弟の軽皇子は、幾日も幾日も泣いていたのを覚えている。そして、祖母は、弱弱しく泣く母を強く叱責すると、すぐに背を向けて歩き出した。私は、祖母の一言を耳敏く聞いた。

――草壁の亡きうえは、その嫡流を玉座に。

 父の忘れ形見とはいえ、弟はまだ7つだ。さすがに即位には早い。祖母はいずれ弟に玉座を譲るため、自ら即位し、持統天皇と名乗った。女帝は過去に例がない訳ではないが、女帝から幼い孫に王位を譲るという話は寡聞にして知らない。しかし、並みの反論など、祖母にとっては意味を成さない。
 ほどなく弟が15歳に達すると、祖母は待ちかねたように譲位した。弟の縁談も日を置かず決まり、男子である首皇子を得た。祖母も久し振りの笑顔を見せたが、それはかつてのものではなく、少し暗い翳りを帯びていた。
 弟と3つ違いの私にも縁談は少なくなかったが、いつも破談になった。祖母にそのことを話すと、きまって古代の姉弟の話をしてくれた。狭穂彦と狭穂姫、倭迹迹日百襲姫と崇神、倭姫と日本武尊…。古来の姉は、弟の霊的守護者であり、姉弟には親子や夫婦よりも強い結びつきがあるのだそうだ。確かに弟は、父に似て身体が弱く、目を離すことができない。祖母は、弟の生命の残り時間ばかり気にしているようだった。

 ほどなく祖母が逝く。そして祖母の予感は、いつも悪い方にばかりよく当たった。707年。弟も逝く。まだ28歳だった。

 父と弟を喪った母の落胆は目を覆いたくなるものであり、その顔には明らかに生気がなかった。このまま母まで亡くなるのではないかとさえ思えた私は、何とか母を元気づけようと、祖母の言葉を引きながら言った。

――文武の子である首皇子を玉座に

 呪縛は再び機能した。母は自ら即位し、元明天皇となった。彼女は祖父の始めた歴史の編纂を継ぎ『古事記』を完成させた。そこには祖父に見せてもらった『天武天皇御識見本』とは異なる神話がある。天孫降臨だ。アマテラスが話を着けた後、孫のニニギが天下る。これは祖母と弟のそれと同じである。その鮮やかな譲位を神聖視したらしい母の造作だ。「こんな作り物で誰が納得するものか。」私は鼻で笑ったが、おそらくは、彼女なりの決意の表れだろう。しかし首皇子は6歳。即位の日までが長く、しかも母の才や胆力は、祖母とは較べるまでもない。祖母の思い、最愛の夫と息子の夭折、治世の重圧。これを一身に受けたとあっては、並みの神経など擦り切れてしまうだろう。私には、その日が、遠くないように思えてならない。

 715年。母は疲労困憊し、玉座を去った。祖母と母の悲願はどうするか…。考えるまでもない。今となっては私が引き継がねばなるまい。私が、弟の子の即位まで、草壁―文武皇統の玉座を守らねばならないのだ。

 玉座を守る。それも悪くない。

 私は即位し、40の声が聞こえる歳になって初めて夫を得た。遅すぎたそれは、私に様々なことを諦めさせた。子を産み育てるという人生は難しい。なので、祖母や母が憑かれた「子を思う親の気持ち」というものは私には理解できない。しかし、母の気持ちは分からずとも、彼女たちがしたように生きることにより、私にも彼女たちのような母性が備わるかも知れない…。そう思った。否。思いたかった。

 おかしな人生もあったものだ。嫁ぐこともなく、胸を震わせる思いも、子の温もりも知らない。いっそ市井の女に生まれた方が幸福であったかも知れぬ。自嘲して振り返ったとき、その状況を生み出した者の存在に対して震えた。

 弟の文武が即位した時、私は18歳。娘盛りだった。祖母の権力が絶頂にあったこともあり縁談も掃いて捨てる程あった。それが破談になる理由を誰も教えてくれなかった。思えば、数多の縁談は、誰かの意図によって破談になっていたのだ。誰の意図か。考えるまでもない。あの時代、それができるのは、祖母をおいて他にない。

 祖母は、文武が首皇子が即位できる年齢になるまでは生きていないだろうと見抜いていたに違いない。そこで首皇子の即位まで玉座を守る者が必要になる。その白羽の矢を私に立てたのだ。

 私にとって…。否。この時代の女性にとって、自分の意思などないに等しい。家のために都合のよい縁談をまとめられ嫁ぐ。祖母も母もそうだった。それが当たり前だった。そして、私に宛がわれた家のために尽くす方法が、他家に嫁ぐことではなく、弟が逝った際の予備としての役割だったに過ぎない。それは理解できる。しかし、ほとんどの女性が、翻弄されながらも、子を産み、育て、母になるという限られた自由がある中で、それが適わなかったことが寂しい。
 
 私は元正天皇として、後世の者が新たに書く歴史書に名を残すだろう。しかし、目の前で傅く臣下すら、私の治世を首皇子が成長するのを待つだけの日々と考えている。
 弟が逝ったときの予備。私の人生とは何だったのか…。逆に考えると、弟が逝ったことは、ある意味で幸せだったのかも知れない。これにより私の人生に幾ばくかの意味が生まれたのだから。
 
 弟の死によって得た居場所。考えれば可笑しくなる。
 ならば。天皇としての証を遺そう。約束された首皇子の即位までの9年。永遠に語り継がれる仕事をしよう。そして、私は、養老律令と三世一身法を整備し、隼人を討った。

 最後の仕事。それはおそらく、この『日本書紀』の編纂になるだろう。
 善悪美醜。様々な感情が交錯する宮廷史。私は、時に冷笑しながらそれを読む。僅かしかいない女帝のうち、実に3人がこの時代に集中し、しかも生み出したのは祖母である。

 全ては草壁―文武の皇統を遺すため。
 
 祖母の思いは、もはや血脈に深く塗り込めた執念といってよい。

 「高天原」か。母のまとめた『古事記』の中で天津神が住む世界の意で使われた言葉。祖母に準えたアマテラスが治める世界。なるほど。たしかに、祖母の特徴をよく表していると感心する。

 私は巻30「持統天皇紀」を開くと、一書の伝として、彼女の別名を加えた。

 「高天原廣野姫天皇」

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歴史

南北戦争について


放送大学「現代の国際政治」で標記の件についてレポートを作成した。興味を持ったので、これを加筆したもの。

内戦への経緯と「人道」の論点化

1812年の第2次英米戦争において、たしかにアメリカは敗れた。しかし、列強の一翼を担うだろうという予感を感じさせた。この戦争以後、アメリカ国内では商工業中心の北部と奴隷制綿花栽培中心の南部という両セクションが形成され、奴隷制の可否はアメリカ内部の深刻な問題となっていった。その中で1860年にリンカーンが当選すると、南部11州は連邦から独立し「アメリカ南部連合」を名乗るに至る。これを連邦側が阻止しようとしたことにより、事態は南北戦争へと発展した。

このような経緯から、南部の大きな目標は、イギリスやフランスに外交上独立を承認してもらうことにあった。イギリスの立場から見たとき、アメリカの内部が分裂していた方が戦略上有利であり、マキャベリズムからすれば南部の独立を承認しても不思議ではなかった。しかし、この承認は容易ではなかった。なぜならイギリス国内では次のような見解が強くなっていたからである。

  • 「南部の支援は奴隷制度の支援であり人道的に疑問である」という批判
  • 南部の軍事力を過大評価し、「手を貸さなくても戦争が長期化する」という有識者の楽観論

イギリスにおいては、1862年に一旦は南部承認の気配があったが、間髪入れずにリンカーンが奴隷解放予備宣言(1863年)を行ったことにより、南部承認を中止した。この内戦の論点が「人道」の局面に移行していることが鮮明になったからである。

内戦の経過

以上のように、南部は外交レベル・戦略レベルで苦戦を強いられた。しかし、リー、ジャクソンといった勇敢で知略に優れた名将に率いられた南軍は、戦場において予想に反して優勢に戦線を展開し、1861年にはブル・ランの戦いで北軍を戦術において大きな勝利を収めた。しかし、この優勢は長くは続かなかった。なぜなら北部は人口と生産力において南部を圧倒していたからである。戦局は物量に勝る北軍に傾き、ゲティスバーグでの勝利が戦局を決定付けた。

足かけ5年で死んだ将兵は、実に62万3000人に達し、アメリカ建国から今日まででアメリカ人が経験した戦争の中で最大の数である。

なお、ここで南部の指導者・将軍・兵士の名誉のために注意を喚起しておくならば、矢口裕人によれば、彼らにとって究極的に大事だったのは奴隷制度ではなく、自らの土地であり、彼は故郷のために戦った愛国者だった点を見落としてはならない(矢口,66P)。

まとめ

以上のように、南北戦争の特徴を抽出すれば、次の2点である。すなわち、

  • 単純なマキャベリズムではなく、「人道」という要素が外交的な態度に影響を与えたこと。
  • アメリカにおける最初の物量、人口と生産力が戦局に大きな影響を与えたこと。
  • そして、これらの特徴は、後にくる近代戦・総力戦の嚆矢ともいえる性格のものであり、この点で特筆に値するものである。

参考文献

  • 高橋和夫『現代の国際政治』(放送大学教育振興会,2013)
  • 矢口裕人「暴力と非暴力のアメリカ」伊達聖伸=藤岡俊博『「暴力」から読み解く現代世界』(東京大学出版会,2022)
  • 井出義光「南北戦争」『世界大百科事典(第2版)ベーシック版』
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現代史

勝田政治「大久保利通とビスマルク」【メモ】

問題の所在

日本の言葉にはドイツ語由来のものが多い。「明治期にドイツをモデルにしたからである。なぜなら彼の国も同時期に統一し急速に列強の仲間入りをしたので、日本にしてみれば範とすべきものだったからである」と理解していた。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』では、大久保利通は「日本国におけるビスマルク」を志したとされている。しかし、この研究は、政治史ガチ勢界隈では「大久保=ビスマルク」ではないという状況を教えてくれた。

大久保=ビスマルク説の確立まで

  • 大久保研究の始まりは勝田孫彌『大久保利通伝』(同文館,1910-11)。ここではビスマルクの演説を聴いた事実を淡々と記し「千古の偉観」とのみ述べる。ここに大久保がビスマルクをモデルにしたという記載はない。
  • 徳富蘇峰「大久保甲先生」(民友社,1927)で大久保のドイツへの傾斜が語られ、三宅雪嶺「同時代観」『我観』54号所収にもよってビスマルクと大久保は固く結びつけられた。この背景には講座派明治維新論があるらしい。これは日本資本主義論争で明治維新をブルジョア革命と考える日本資本主義発達史講座で主張展開したもので、明治維新=絶対主義成立と捉えるそうだ。その他、服部之総、連山茂樹の研究で大久保=ビスマルク像が語られ、毛利聡彦『大久保利通』(中公新書,1969)では「自らビスマルクたらんとし・・・」とされ、この発想は戦後歴史学の中で確立した。

転換-イギリスをモデルにした説の登場

  • 講座派への批判が増えてくると、石塚裕道『日本資本主義成立史研究』(吉川弘文館,1973)では、イギリス資本主義に「富国」、ドイツ軍国主義に「強兵」のモデルを見たとして、イギリスがモデル国として挙げられるようになった。
  • 佐々木克「文明開化の政治指導-大久保利通を中心に-)(林屋辰三郎『文明開化の研究』所収,岩波書店,1979)においては、大久保はイギリスの富強をビスマルクの論理で達成しようとしたとされ、同氏『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館,1998)においてもドイツとイギリスという「2つの目標」を明確に打ち出したとされた。
  • 飛鳥井雅道「明治天皇・「皇帝」と「天子」のあいだ」(西川長夫・松宮秀治編『幕末・明治期の国民国家形成と文化受容』所収,新曜社,1995)では、ついにモデル国からドイツを消し去り、「大久保がイギリスをモデルとしたことはまったく疑いない」と明言している。
  • 田中彰『岩倉使節団』(講談社現代新書,1977)では「プロシアを特別の国と解するのは控える」としたが、同国に相対的共感を抱いていた。その後の同氏『岩倉使節団の歴史的研究』(岩波書店,2002)では、大久保の憲法構想は、「木戸孝允のプロシアモデル構想に対して、イギリスの君主制を念頭においていたから、通説とはちがってイギリスモデルとしての可能性が大きかった」と指摘し、「アジアにおけるプロシアの道を選んだ」のは、明治14年の政変後の岩倉=伊藤ラインであると述べる。
  • 他方、最近でも大久保のプロイセン路線を支持する説は皆無でない。室山義正『松方正義』(ミネルヴァ書房,2005)では、「大久保の富国強兵構想は、イギリスを外形的目標とし、ドイツを実質的目標としたものである」という。

検証-大久保の書簡から

藤田氏の検証はどうか。

大久保の書簡でビスマルクに言及したのは5カ所しかない。また大久保の指導原理が見られるものとして、次の2つがあるという。

  1. 「立憲政体に関する意見書」1873.11:大久保は政治形態としての民主政治の適用を拒み、君主制時も固守すべきではないとして、「君民共治」を理想とした。そのモデルとしてイギリスに言及。日本と同じ一島国が万国を膝下に制するのは、人民が各自の権利を達するために国家の自主を謀り、君主も人民の才力と人力を愛養する政体だからである。
  2. 「殖産興業に関する建議書」1874:日本の地形や天然の利はイギリスに類似している。殖産興業を推進するにあたって目標に設定したのが、保護主義を経て自由主義となって「富強」を成し遂げたイギリスの勧業政策であった。日本の現状を勘案すれば、民業を誘導勧誘する保護政策をとらねばならないが、それはイギリスのような「富強」にいたる一階梯なのだ。という。

所感

面白い論文だった。「大久保はビスマルクになろうとしていた」「モルトケが」と、知った風にいうのは控えようと思った。

国士舘大学文学部人文学会紀要38-2005-12

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歴史 現代史

農地改革―GHQ は何を解体しようとしたのか。

問題意識

1)「農地改革は、悪徳地主を妥当し、困窮に苦しむ小作人を救うもの」というのは、建前であっても本音ではない。GHQ は、農民層の窮乏が対外侵略の大きな要因と考えて[老川,2016,10p]、農地改革を行ったと説明とされる。しかし、個人的な感覚によれば「地 主・小作人」という牧歌的な言葉がファシズムと繋がる印象がない。地主制度とファシズム。ここがよくわからない。そ こで日本が再びアメリカの脅威とならないようにする[老川,2016,10p]ための手段として農地改革を実施した背景、農地改革によって解体しようとしたものとは何であるのか考えてみたい。

2)イギリス紙は次のように書く。

日本は、軍部は弱体化したものの、財 閥・官僚・地主は依然として存在しているから、農地改革が必要である。これにより、(1)工業に対する低賃金労働の供給源を断ち、(2)日本の徴兵力を減ずる。(3)農民の購買力を向上させ、国内の需要を増し、対外輸出と侵略を緩和するを実現し、もって民主化すべ きである。

マンチェスター・ガーディアン紙1945年9 月 26 日の社説

戦前の日本は、これと裏返しの状態で あったことが推測される。つまり (1)農村は低賃金労働の供給源であって、 (2)徴兵力を担保し、 (3)農民に購買力がないから対外輸出や 侵略に走ったということだろう。

農地改革が解体しようとした支配層

戦前の日本の支配体制

海外は戦前の日本の財閥・官僚・地主といった旧体制の支配層を問題視していたところ、GHQ は「徹底的な非軍事化と民主化」により、日本を弱体化しようとした。民主化という言葉は耳触りがよい。しかし、少なくともこの時期に行われた民主化は、国民を均質化して、カリスマの台頭を防ぐというのが目的であり、軍事的な去勢に他ならなかった[蔭山,2015,30p]。この方針の肉付けとして行われた弱体化施策には3本柱があった。すなわち 財閥解体・農地改革・労組組合の育成であり、それは社説に言及された旧体制の支配層の解体と対応している。

財閥・政治家・官僚

まず財閥・政治家・官僚の構造を確認しよう。明治維新以来、たとえば三井が政友会、三菱が民政党というように特定財閥と特定政党が接近した。その手法は 政略結婚を繰り返して互いに影響力を 浸透させる方法による[川本]。網の目のように張り巡らせた閨閥を通じ、政治家は政治資金を財閥に求め、財閥は政治家・官僚の人事権を握り、政治家・官僚は金の見返りに財閥の資する政治や行政を行った。結果、政治の重点は財閥の事業=軍需を中心とした重工業に移り [柴垣]、やがて行きついた先が総力戦である。

「地主」―地租改正の効果

1)財閥・政治家・官僚に並ぶ「地主」とは何者か。一般に「他者に土地を貸し、その小作料で生活する階層」をいう。819 年 11 月 5 日に発出された太政官符に「遂に開熟之人を以て永く彼の地主と為せ」とあるように、地主に土地を占取させる制度は早くから利用された[須磨]。その後、彼らは田畑永代売買禁止令の規制が質権による土地金融の土地金融の展開によって空洞化し土地集積が進むと、地主は村落の再生産に深く浸透する存在となり、やがて幕藩領主と小作人の 中間収奪者としての地位を確保するに至った[佐藤]。

2)明治維新により成立した新政府は、対外的には唯一の為政者を名乗っていたが、国内に藩体制を存置したままでは限界があった。そこで統一国家としての実質化を図るために1871年7月に廃藩置県を断行し、同11月には1使3府72県に統合した[田中]。この成功を前提として進められた地租改正こそが、支配層たる地主を作る大きな要因となった。地租改正とは、租税を従前の現物の年貢から新政府への直接貨幣による税を納入させる方式へ作り替えるものであり、このために廃藩を前提として旧藩主らの領主的土地所有を否定し、地主の私的所有権を認めた。地租改正により中央政府の財政基盤は整い、天皇制国家機構の構築を保証することになった[近藤]。他方、私的所有の法認と合わせて地所永代売買の解禁が行われた結果、高額地租に耐えかねた一部零細農民が土地を失い小作農民へ転化することになり、地租を担い得る大地主らに土地が集積していった[近藤]。いずれにせよ「地租改正は地主制を創出・確認した政策であるとともに、さらに出稼ぎ型の生計補的賃労働という特殊日本的賃労働を析出した賃労働創出政策としての意義を持つもの」[近藤]であった。

3)地租改正前後、地方の地主は他に経営を行うなどして地方の資本主義的諸関係をリードし、また「地主手作」と呼ばれる直轄地の耕作をしていた。しかし、奉公人の給銀や肥料・農具代などの高騰により地主手作は縮小し、その部分の土地まで小作に出して高率の小作料をとる寄生地主が発生するようになった[山川辞典]。大規模資本の登場や地主手作の衰退の中で再編され生まれた寄生地主は、小作人への貸地と有価証券投資に特化する存在となった[安孫子]。戦前、地主は一方で高額の地租を国に送り、他方で投資によって財界に金を流し込んでおり、日本の支配層に影響力を及ぼすようになったと考えられる。

4)地主の影響力に強さは、貴族院令(明治22年勅令11号)の中に端的に見ることができる。これによれば、貴族院の構成の中で、皇族や公侯爵に並べて「府県二於テ土地或ハ工業 ・商業二付多額ノ直接国税ヲ納ムル者ノ中ヨリ1人ヲ互選シテ勅任セラレタル者」が挙げられている。地主は貴族院議員の有資格者なのであり「日本の支配層の一角」として、「確立した日本資本主義の再生産構造の不可欠の一環」となり「支配階級として天皇制権力の階級的基礎をなすに至った」[安孫子]。

小括

農地改革のターゲットである地主は、 支配層に金を送り込むのみならず、自らも帝国議会や地方議会で発言力を備えた支配層であった。戦争に対する支配層としての彼らの責任の一端は否定できないだろうし、GHQ がこれを解体しようとした意図も理解できるところである。

日本の国際経済力の基礎を挫くー低 賃金労働力供給源としての農村

再び英紙社説

GHQ は虐げられた小作人を解放するために農地改革を行ったのだろうか?このような建前もあっただろう。しかし現実は、「農地改革によって工業に対する 低賃金労働の供給源を断つ」というところが本音であったことが窺える。

小作人の生活

1)戦前期、日本の外貨獲得に係る基軸的産業は生糸と綿糸布であり、戦争の足音が聞こえると一気に重工業化が進んだ。日本には資源もなければ自前の先端機械もない。では何が国際競争力の源泉だろうか。それは、低賃金労働力[暉峻a] であり、また、彼らの技術の高さであった。このような労働力はいかにして生ま れたのだろうか。

2)地主は高額の地租や出資金を払っても公侯爵に比する生活ができた。これを支えていたのは支出を上回る小作料である。地主の生活の背景には、小作農(全体の3割、零細自作兼小作を含めると7 割)の辛い生活があった。彼らは収穫米の半分を小作料として徴収された。地主に債務を負って、人格的にも隷属的な立場を強要されるという生活であったという[暉峻b]。また当時は長子相続制であり、農村では、田畑の細分制限令などにより零細地主であっても分家もできないような状態だった[児玉]。僅かな財産すら遺されない次子以下の者や娘はどうするか。あるいは食い扶持を減らす必要もあったろう。彼らは家、そして村を出て行くことになった。

低賃金労働力の供給源としての農村

1)第一次世界大戦でヨーロッパの生産設備が破壊され、需要は新興の日本に振り向けられた。これに応えるために日本の設備投資は大幅に増えた。従前はブラジルなどに渡っていた食い逸れの人々は、都市部の工場、つまり資本家・財閥の下部組織へ吸収されていった。無論、労働力は供給過多であり、待遇に不平があっても他に生きる途もない者である。したがって低賃金とならざるを得ない。こうして農村は安く質の良い労働力の供給源となり、彼らは日本の国際競争の原動力となった。

2)のみならず、この時期の労働者とは、前線と無関係ではない。エルンスト・ユンガーは『労働者』(1932)の中で総力戦は労働者とリンクすると指摘した。これによれば、前線では戦闘機・戦車を操作する労働者と、後方でそれらを生産する労働者の区分は曖昧になるという。前線と後方の一体感・一体化こそが「総動員」であり、これがファシズムにつながると指摘した。つまり、地主というシステムは、軍国主義で総力戦を行う日本の兵站部隊を供給していた一面もあったと捉えることができるのではないか。

小括

農村で食い逸れた人々の犠牲の上に鍛えられた日本の競争力、また総力戦を展開した日本の兵站は、GHQ が脅威と認識したものである。地主制がこれを生み出すのに寄与しているのであれば、これは再軍備を防ぐためにはスポイルすべきシステムである。そのためには低賃金労働の供給を断つ必要がある。それは、農民 が農村にどまり、どうにか食っていける体制を整える農地改革だったのである。

閉塞を打破する体制を望む者の牽制

ファシズムを望んだ人々とその牽制のための農地改革

1)「地主は支配階層」と書いたが、寄生地主制は封建制から資本主義への過渡的段階であり、戦前の段階で極に達してからは後退局面にあった。日本の資本主義が成熟段階に入ると、資本制と地主制の矛盾が露呈したためである。これはすなわち、(1)急速な工業化は低価格で安定した米を求めるようになったこと、 (2)近代信用制度は地主の収入源の1 つとなっていた高利貸を制約するようになったことである。1918年の米騒動などの小作人の農民運動の展開も相まって、政府は政策の舵を切った。小作運動を弾圧しつつ自作農創設維持基金を 作るという飴と鞭を行い、他方で商工業への食糧確保のために米穀法を制定し た(1921)。昭和恐慌や農業恐慌を経て 戦時体制に入ると食糧管理制度、二重米価、適正小作料などの諸政策を展開したが、この時期になると地主切捨ての色彩 が色濃く見えていた[安孫子]。

2)このしわ寄せは小作人に押し付けられる部分も少なくなった。大きな恐慌に喘いだ時期でもある。こうして貧困や閉塞状況に逼塞していた零細地主や小作人は、折しも台頭した右派急進派に、閉塞の打破と希望を見出した。行き詰まりの 打開策としてファシズムを求めたという指摘されるところである[暉峻 c]。地主制度が盛り上がりを見せて、その到達点にファシズムがあったというよりは、既に後退局面にあった地主制度の中で、なお地主の特権的立場を維持しようとした地主の抵抗に起因する制度の末期的な段階にあって、予測外に極右化したというところだろうか。なればこそ、GHQは再びのファシズム化を防ぐために農地改革を行い、瀕死であった地主制度の命脈を絶ったのであろう。

共産化・社会主義化を防ぐための農地改革

1)ウィキペディアの農地改革の項には共産主義への対抗のためという趣旨の記述がある。たしかに「持たざる者」として搾取されている小作人は共産主義に傾き易いだろう。ところで日本の位置は、アメリカにとって見れば、防共戦略の最前線である。ここを共産化させる訳にはいかない。つまり、日本は、再びアメリカに楯突く強さを持たせてはならないが、共産主義の波に取り込まれるほど弱体化してもならないのである。農地改革は、このような要請の中にあって、防共体制を構築する手法としての役割も担った。これについては、共産化や社会主義化を防ぐ手法として機能している ホームステッド法(1862 年)という現在進行形の先例を下敷きにしたものであると評価してもよいかも知れない。

2)ブルジョアは現在の地位を守るために保守を支持する。しかし、工業化が進むとプロレタリアートが強くなり、彼らは改革を望む。ブルジョアの弱点は頭数の少なさである。ここから、一般に工業化・都市化が進むと社会主義に傾くという全体的な傾向がある。この点、アメリカは社会主義化しないのは何故だろうか。ここでホームステッド法が注目されるのである。ホームステッド法とは、65 ヘクタールの公有地を5年間開墾居住すれば、その後に無償で取得できると保証するものである。実際に西部開拓に多大な効果をもたらした。ここで生まれた自作農は、自分に財産を与えてくれて、所有を保証してくれる政府を支持する保守勢力となった。 これにより、政府保守勢力は、資金援助担当(ブルジョア)と、頭数担当(自作農)という支持層を得ることになり、 プロレタリアの頭数に対抗することができるようになった。アメリカが共産化・社会主義化しない理由がここにある [ゆげ]。現に、大統領選挙を見れば、リベラルの民主党が獲得する州は沿岸部の工業地帯である。

3)日本において第二次世界大戦後に吹き荒れた共産化…は、…小作人は共産勢力のターゲットであった[中里,2018]だろう。これに対し、GHQは、アメリカ本国の防共戦略を適用したのだろう。農地改革は小作農が「持たざる者」であるがゆえに反体制を望んできた点に着目し、彼らに土地・財産を与えることで、反体制 の萌芽を摘もうという意図を看取することができる。

総括

以上、農地改革について検討した。農地改革については、「旧支配層である地 主に搾取されていた人々を解放するもの」という素朴な理解であった。しかし、実際にはこのような目的は建前であった。英紙社説のいうように、戦勝国の視点は「日本が再び脅威になること」を防ぐという点にあり、そのために旧支配層の一角であった地主を解体したのである。

かつての日本の強力な武器として、質が良く低賃金の労働者による競争力があった。大戦中はこの労働力が兵站の役割を果たしていた。地主は、結果として、この供給に寄与していた。地主が土地を独占していたことにより、食い逸れたものがこのような労働者になっていたの である。農地改革は、同時に行われた労働基本権の確立と合わせて、このシステムを変え、供給源を断つという目的を有していた。さらに農地改革は、ホームステッド法の成功体験を下敷きにしている点も窺える。自作農の創設は、保守層を作り、それにより当時脅威となりつつあった共産主義を牽制し、日本の共産化を防ぐという意図もがあったことも確認でき たところである。

農地改革によって GHQ が解体したもの。それは戦前の日本の支配層であり、戦争 を支えた兵站であり、共産勢力やファシズムといった現状を打破するために極端な思想へ傾くことへの危険性である。(以 上)

■参考文献

  • 安孫子麒「寄生地主制」『世界第百科事典(第2版)』ベーシック版』(日立デジタル平凡社,1998)=[安孫子]
  • 児玉幸多「家〔近世〕」同上=[児玉]
  • 暉峻衆三「農地改革」同上=[暉峻 a]「小作農」同上=[暉峻 b]「地主〔近代〕」同上=[暉峻 c]
  • 川本彰「家〔結合原理としての家ー伝統と変容〕」同上=[川本
  • 柴垣和夫「財閥」同上=[柴垣]
  • 須磨千頴「地主」同上=[須磨]
  • 佐藤常雄「地主〔近世〕」同上=[佐藤]
  • 田中彰「廃藩」同上=[田中]
  • 近藤哲夫「地租改正」同上=[近藤]
  • 老川慶喜『もういちど読む山川日本戦後史』(山川出版社,2016)=[老川]
  • 蔭山克英『やりなおす戦後史』(ダイヤモンド社,2015)=[蔭山]
  • 『山川 日本史小辞典(改訂新版)』(2016 年,山川出版社)「地主手作」[山川辞典]
  • 中里幸聖『変わる! 農業金融―儲かる“企業化する農業”の仕組み』(日刊工業新聞社,2018)
  • 葛建延「日本の農地改革―その意義と限界」(創価大学大学院紀要 31,141-160,2009)
  • ゆげ塾「共和党と民主党どっちが強い?~南北戦争は票田を耕した~」=[ゆげ] https//www.youtube.com/watch?v=7c-0saqrU1E(2021.1.21 確認)
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